ケイケイの映画日記
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本当はクリスマスが舞台というので、12月の半ばに観ようと思っていたのですが、29日に「炎のゴブレッド」をいっしょに観るはずの友人が仕事でダメになり、使用期限の迫るチケットを消化すべく、予定を繰り上げて今日観て来ました。うん、やっぱりクリスマス前が盛り上がる作品でした。
お話は一斉に停電が起こった東京のクリスマスの一夜が舞台。老若の12人の男女が織り成す群像劇です。不倫の清算、死期の近い父と息子、満たされぬ人妻、昔の恋人が忘れられない男、秘めた過去を持つ老婦人、片思いの若い女性、病魔に冒された少女など、多彩な面々がスクリーンを彩ります。
キャスティングは豪華で、ほとんどの人が観客に馴染み深いです。しかしそれが全てベストかというとそうでもない。お馴染みということは、それだけ観る方にも先入観があるということです。淡島千景は宇津井健と夫婦役ですが、最初妻が年上かと思っていたら、設定は夫75歳、妻68歳。実年齢は81歳の淡島千景を使いたいなら設定を変えるか、星由里子など美しい大物熟年女優に変えた方が良かったんじゃないかと、個人的に思いました。
多彩な面々と書きましたが、変に家がお洒落過ぎたり、一昔前のトレンディドラマのようなセットが目につき、そういう意味ではリアリティがありません。トヨエツが営むバーの路地は、異国風でムードがありました。そして停電といえばろうそくですが、映画を飾るキャンドルの数々がとても綺麗。薄明かりの中のカメラがとても美しく、女優さんがみんな綺麗に見えました。
たくさんのお話が、少しずつ絡まっていきます。確かに少々強引な持っていき方で、停電やクリスマスが生かされていないパートもありますが、私がこの作品を好きだと思えるのは、仄かにそこはかとなく、全ての登場人物に感情移入できたからだと思います。悪い人が誰もいなく、テレビもパソコンも電話も使えないとき、人は誰かと語たりあったり真剣に向き合いたくなるんだろうなと思えると、このお話たちはとても身近なものに感じるのです。散漫一歩手前で、私はOKでした。
トヨエツと田畑智子のかけあいの間合いがよく、楽しめます。一番好きだったのは、かつて愛した人への原田知世の思いやりを感じるけじめのつけ方でした。原田知世は決して美人ではありませんが大変美しく、スクリーンにとても映えます。少女スターだった時代を知る私には、なんだか嬉しく感じます。クリスマスのデートムービーにうってつけ、と言いたいところですが、どちらかといえば、夫婦の久しぶりの映画鑑賞に向いた作品ではないかと思います。
2005年11月24日(木) |
「あんにょん・サヨナラ」 |
今年の釜山国際映画祭・ドキュメンタリー部門の最優秀作品。この作品のことは全然知らなくて、ネットでお付き合いさせていただいている神宮寺誠さんのサイトに遊びに行き、偶然知りました。神宮寺さんの感想にとても興味を引かれ、公式HPに飛んでみると、私の住む生野区の区民ホールで11/23日に上映となっており、昨日駆けつけた次第です。上映形態は自主上映の形で、小学校の講堂のようなホールにパイプ椅子を並べての鑑賞でしたが、主催者側の方のご挨拶に拍手が沸き、上映開始、上映終了後も拍手が沸きました。やはり一人で鑑賞するビデオやテレビと違い、映画という形での鑑賞は良いものですね。日韓合作の作品。想像以上に立派な作品で感激しました。
韓国に住むイ・ヘジャさん(62歳)は、1歳の時父親を徴兵され、以降生死もわからず辛い日々を送りながら生きていました。結婚し子供の手が離れたのを期に、父の消息を探すようになり、1992年に中国で戦死したと知ります。そして父が日本軍の英霊として靖国神社に祀られていることも知り、2001年に合祀取り下げの申し入れをしますが、却下。そんな彼女に、韓国人の戦後保障の問題を支援する古川雅基さん初め、多くの日本人が支えています。
この作品はヘジャさんの問題を軸に、靖国の成り立ちから解説、沖縄のひめゆり部隊の生き残りの方、在韓のハンセン氏病患者の方から聞く当時の話、靖国の合祀取り下げを要請する多くの日本の方、在韓従軍慰安婦の皆さんのインタビューを盛り込んでいます。そして日韓だけではなく、古川さんが中国へ渡り、戦時中を生き残った方々にもインタビューしています。
私は日本生まれの韓国人ということで、イマイチ本国の人の気持ちが掴めない時が往々にしてあり、戦後保障の問題にしても正直いつまで言うのだ、戦後何年たっているんだと言う気持ちがありました。さりとて日本の人の靖国や教科書問題に関しての「内政干渉」と言い切る言葉にも、良き未来のために過去に何があったか知ることは重要だという思いがあり、納得出来ない思いもありました。戦後保障の問題の疑問はこの映画で一発で解消。一言で言えば種々の提訴している方々には、まだ戦争は終わっていないのです。
この作品では日韓中台湾の市井の老若の方々初め、学者、市民グループ、靖国の参拝を守る方々まで幅広くインタビューを挿入しています。合祀取り下げの方を軸にはしているのですが、決して参拝を賛成する人を糾弾することなく、時間を割いてご意見も紹介しています。靖国問題についての考えを、見る者に委ねる方式です。
第二次大戦はアジアの国々を白人の植民地支配から守った聖戦だと語る若い男性がいます。そういう考え方があるのは知っていました。が、夏に原爆を開発した科学者が来日し、被爆した方と対面したドキュメントを見たおり、「私は謝る気はない。原爆投下で日本は降伏したのだから、あの投下は正しかった。日本を救ったのだから」。失望を禁じえない被爆者の方を見て、私も憤りを感じたことを思い出しました。若い男性はこの科学者の言葉をどう聞くのだろうと思います。しかし考えてみると、ヘジャさんや多くの戦争を引きづる韓国人の気持ちが理解出来、科学者に怒る私は、両方の国の人々が理解出来るということです。両方の国の心がわからないのではく、両方の国が理解出来る、これが私の特性であり個性であるわけです。
南京大虐殺の展示場を訪れた古川さんが、手足を釘で打ち付けられて死んで行った子供の遺骨の前で、何度も「ごめんなさい」とつぶやかれます。私は加害者側の子孫が全く責任を感じないのもおかしいですが、さりとて謝る必要も無いと思っていました。しかしこの古川さんの行為に咄嗟に私の胸に浮かんだ言葉は「ありがとう」でした。「ありがとう」の理由は、上映終了後の古川さんのご挨拶の時にわかりました。「『ごめんなさい』の後の続く言葉は、『2度と繰り返しません』です」。
私が涙が止まらなかったのは、父の死後いかに母とヘジャさんが苦労したか、夫を父を恋しく思った姿と、兄の合祀取り下げを要請している老婦人が語る、息子を戦争で失った自分の母の哀しみを語るときでした。誰にも理解出来る同等の哀しみに、国の違いはありません。歴史観には様々な認識がありますが、事実はたった一つではないか?まず事実を見ることが大切なのではないか、そう感じました。
阪神大震災の時来日した時は、「犠牲者の冥福を祈る。しかし日本に罰が下ったのだ」とすさまじい言葉を吐いたヘジャさんが、韓国が国益重視のため、戦後の苦しみから抜け出せない自分達を見捨てた中、支援してくれる多くの日本人と接するうち、「日本を許そうと思う。日本にもたくさん良い人がいる。」とまで変化します。そんなたくさんの日本の人がいることを、私は全く知りませんでした。マスコミも伝えていないと思います。
お互いがお互いを理解し、被害者側加害者側が手を携えて乗り越えていくことで、真の平和は来るのだというメッセージを作品から受け取りました。愛国心イコール軍国主義のように受け取られがちですが、本当に自分の国を愛し平和を愛する人は、他国の人が自国を愛する気持ちを尊重するはずです。
この作品の韓国人が日本一たくさん住んでいる生野区での上映に尽力されたのは、車椅子の在日の方でした。私がアンケートを記入している横で友人とお話されていましたが、「日本の人がこんなに韓国人のために頑張ってるのに、俺らもなんか頑張らなあかんやろ。」と笑顔で話されていました。そう私も頑張らなくちゃ。お互いの国の人を真に理解してもらうよう努力するのは、在日の義務なのだから。上映形態は自主上映で、金額的には観客動員一人につき、500円のバックだそうです。私の感想を読んで自分の街で是非上映したいという方がいらっしゃれば、とても嬉しいです。以下に神宮寺さんのサイトと、「あんにょん・サヨナラ」の公式HPを記しますので、よろしくお願い致します。
「神宮寺表参道映画館」
「あんにょん・サヨナラ」
2005年11月23日(水) |
「エリザベスタウン」 |
いや〜、困ったな。予告編と全然違うお話。予告編では仕事に失敗し失意の若い男性が、父親の死をきっかけに再生していく姿を、チャーミングな不思議ちゃんぽい女性との恋を絡めて描くのかと思っていました。しかし観た直後の感想は、副題に「キルスティン・ダンストのプロポーズ大作戦」とでもつけた方が良かったような代物。キャメロン・クロウらしくBGMは良いし、変にお洒落ではなく地に足ついた印象的な良いシーンも数々あるのに、目的でないものを見せられたので、落胆してしまいました。
シューズ会社に勤めるドリュー(オーランド・ブルーム)は、新製品の開発に失敗し会社に大きな損害を与えたため、辞めざるを得ませんでした。恋人とも別れ、失意の彼が自殺を図ろうとした時携帯が鳴ります。妹からの連絡で父が故郷のケンタッキーのエリザベスタウンで急死したというのです。長男の彼が遺体を引き取りに向かうことになり、ケンタッキーへ向かう飛行機でフライトアテンダントのクレア(キルスティン・ダンスト)と出会います。おしゃべりの彼女ですが不思議な魅力のある女性で、のちドリューと大きく関わるようになります。
すごく有名なシューズメイカーみたいですが、そんな大きな会社が、若い社員一人に責任をおっかぶせるというのがまず疑問。アメリカは年功序列は関係なく、実力主義で年俸制が多いと聞くので、この辺は不確かですが。
予告編で車を運転中に泣きながら拳をあげるオーリーに、昔の父とオーリーがオーバーラップするシーンで、恥ずかしながらいつも涙ぐんでいた私。てっきり父がどういう人か、父の故郷で昔馴染みや親戚たちの話の中から浮き彫りにされ、彼が失意から再生するとばかり思い込んでいた私は、一向に父がどういう人か語られないのでびっくり。いや語っているんですよ、みんな。「いい人だった」「人から愛される人だった。」と。でもそれだけじゃなぁ。エピドードやドラマチックな部分がまるでありません。エリザベスタウンの人々のドリューを迎える少々おせっかいな暖かさはとても雰囲気が出ていて、好印象。ドリューが嬉しく思いながらも知らないひとばかりの中で戸惑い、身の置き所に困るような様子も気持ちが理解でき、良かったです。
火葬か土葬かの話し合いに時間をさいて描かれますが、これも日本に住む者の感覚ではわかりづらかったです。お葬式も披露宴かと思うような明るさですが、これはそれもありかなとも思えました。しかし母役のスーザン・サランドンの、日本で言うところの喪主の挨拶のスピーチがどうもなぁ。夫の人となりがあまり出てきません。それどころかシモネタまで披露。えっ!とびっくり。いくらアメリカでも不謹慎ではないでしょうか?その後習い始めたばかりの下手なタップダンスを披露するに至っては???。これも日本に住む感覚ではわかりません。その他ボヤ騒動まで描いててんやわんや。もうちょっと私はしんみりしたかったです。
予告編で「特別な地図よ」とキルスティンがオーリーに手渡す場面を記憶の方も多いでしょうが、その特別の理由がどーも。もっと深くしみじみするか、切ないものが隠されていると思っていた私は、ここでも落胆。その旅行の中で父の遺言通り遺灰を巻くドリューですが、あんた一人でそんなことしていいの?お母さんや妹は?妹に「長男でしょう!」と叱責されるシーンがありましたが、アメリカは夫婦単位で物事を考えるという刷り込みが私にはあるので、彼一人で遺言を実行するなら、その理由も入れて欲しかったです。
若い二人が長電話するシーンや、惹かれあうというか、ドリューがクレアに「落とされる」姿は自然で、若々しくスイートな雰囲気が出ていて良かったです。あれですな、母とクレアはチャーミングですが変わり者です。父と息子で女性の趣味が似ているというのはやっぱり親子ですな。もっとちゃんと内容を宣伝してくれていたら、そう悪くはなかったでしょうが、予告編で泣いたのに本編では全然泣けなかった私には、肩透かし全開の作品でした。
続々と寄せられる賞賛の声に、予定より早めに日曜日に観てきました。しかし良質の誠実な作品には間違いありませんが、在日韓国人の描き方に私は温度差を感じてしまい、手放しで称賛とはいきませんでした。今回ネタバレです。
東京の出版社に勤めていた香織(伊藤歩)は、ある事件が元で今は福岡のタウン誌でライターをしています。映画館で幕間芸人をしていた人をタウン誌でとりあげることになり、取材のため久しぶりに故郷の下関へ戻ります。取材のため幕間芸人・安川修平(藤井隆、のち井上尭之)が出演していた「みなと劇場」を訪れると、昭和33年から彼が舞台を降りるまでの話を、劇場従業員の絹代(藤村志保)から聞くうちに、彼の家族のことが気になりだした香織は、修平の一人娘美里(鶴田真由)のところを訪ねます。
みなと劇場で絹代から語られる回想場面が素晴らしいです。当時の娯楽の殿堂であったろう映画館の熱気が感じられ、その仕事に携わる修平たちの気合や愛情が感じられます。画面に映る邦画の名画の数々は、ワンシーン観ればすぐわかる作品が次々で、これも嬉しい限り。私が生まれるちょっと前から回想シーンは始まりますが、私は幼稚園頃から映画館には連れていってもらっていて、幕間に芸はさすがに知りませんが、駅弁のように売り子さんがお菓子やジュースを売りに来てくれたのは覚えています。あれこれ買ってもらうのも楽しみでした。そうそう男の人はあんな風にタバコも吸っていたなと、それまでもが懐かしく思い起こされ、中年より上の映画好きにはたまらない場面の連続でした。語り部にその年齢の男性にはマドンナだった藤村志保を使ったのも正解で、変わらぬ清らかさに年輪が加わり、みなと劇場とは絹代自身なのだと観客に思わせます。
映画の隆盛から衰退まで、一貫として同じ接し方で夫を支える修平の妻(奥貫薫)の描き方が良いです。時間がある限り夫の舞台を観て、幕間芸人の夫を心から愛しているのがわかります。彼女が夫のために夫を首にした劇場へ、彼女が恥も外聞もなく談判に行くシーンでは、常に控えめだった人なのでその行動力に驚き、そして妻なればこその勇気だと泣かされました。演じる奥貫薫は少し老けましたが、優しく平凡な奥さんを演じて、いつも真心を感じさせる人なので、この作品でもそれが生かされ好演でした。修平を演じる藤井隆は、のち娘から「素人芸」と評されるので、まぁあんなもんかと。お笑いの人は演技をすると唸るほど上手い人が多いですが、彼の場合バラエティでの司会が中心なためか、それほど演技巧者とは思いませんでした。彼の持ち味である誠実さで救われた感じです。
前半、東京での失敗と対極するような地味な題材にのめり込む香織の姿も自然で、評判通りの秀作だと思っていたら、修平が実は在日韓国人であり、妻の死後美里を捨てて韓国に帰ったのが判明してからの、在日の描き方に疑問符がいっぱいつくのです。以下に書くことはあくまで私の私見であると思って読んでいただければ幸いです。
香織が安川父娘の行方を捜すのに区役所に行くと「個人情報だから」と断られるのに何故民団の地方支部なら簡単に教えるのか?確固たる理由がなければ、民団でも対応は同じはずです。美里は修平に中学生になる前に捨てられてから、施設で暮らし筆舌に尽くしがたい生活を送っていたはずです。その名残か、美里を演ずる鶴田真由のあまりの所帯やつれぶりにびっくりした私は、なるほど役作りかと納得。
しかし同じ在日の夫と結婚し、子供に本名を名乗らせて、差別に負けない強い子にとセリフにありますが、その強い在日としてのアイデンティティーはどこからくるのでしょう?彼女は母親は日本人のいわゆるパンチョッパリ。自分を捨てた憎い父の国を素直に母国と思えるでしょうか?夫も早くに両親をなくしたとセリフにありますが、この人もまたしかり。日本にいて自分の血を確認するのは親や周囲の人間からです。この人たちの育った背景がまるで語られないので、「苦労した」のなら、尚更日本に住んでいるのに受け継ぐ親もいないのに、在日に固執するのかわかりません。普通は同化する方を選ぶのでは?
亡くなった母の33回忌の墓参りに偶然美里の夫と修平は出会いますが、韓国では○○回忌という風習はなく、毎年命日に同じように法事をします。たまたま修平は普通の命日のつもりで墓参りしたかもしれませんが、上に書いたように在日であることを強く意識した人たちなので、たとえ母は日本人でも韓国人の妻として亡くなったのなら、13回忌や33回忌という言葉が出てくるのは変です。
香織の中学の同級生金(橋龍吾)も、中学生の時に香織との淡い恋破れ、その時の痛手か、結婚相手には同じ在日を選んでいます。これって何?いつの時代だという描き方です。これでは結局安全パイの相手を選び、勤め先も同胞ばかりの民団に移り、まわりまわって同じ血ばかりの場所が落ち着くという風に私には取れます。何と精気のない描き方でしょう。本当に在日を理解しているなら、今どんどん本名で社会に進出している人たちのように、文武両道だった金を描かなかったのでしょう?
佐々部監督は「チルソクの夏」で主人公に「お父さんは仕事で朝鮮の人の世話になっているのに、何で私が韓国の人とつきおうたらいけんと言うの?」という瑞々しくも感慨深いセリフを与え、私は嬉しかったものですが、この作品に限り在日へのアプローチの仕方は、言い方が辛らつで申し訳ないですが、大昔ハリウッドがシドニー・ポワチエに求めていたものに感じるのです。差別もさらっと目をそむけたいような物には描かず、だから差別はいけないと簡単に思わせ、差別迫害にもめげず清く正しく本名を名乗る毒のない日本人に都合の良い在日韓国人です。過去を描きながら見事に今があった「パッチギ!」とはだいぶ違いました。
日本人の佐々部監督が在日にこだわって描くのは素直に嬉しく思いますが、それなら確かなリサーチや掘り下げをお願いしたいところです。
美里を捨てた修平も親に早く死に別れています。家族ももたないそういう人は、独特の風来坊めいたアウトロー的雰囲気があり、老年期の井上尭之にはそういうムードたっぷりで、晩年の修平にはうってつけでした。若い頃の藤井隆にそういう雰囲気が欠けていたのまずかったかも。美里が劇場では会わず、遥々韓国に会いに行くのは良い設定です。よってたかって「正しい道」を説かれても、あの時は意地でも会ってやるもんかとなって当然。しかし会おうと思うまでの心の移り変わりが描かれていないので、唐突な印象が残るのが残念です。
微笑ましくも少々押し付けがましいおせっかいをする香織ですが、彼女の成長の記録とも見られる展開です。人はやはり他者と交わることで成長するのだなと、改めて思いました。修平が在日ではなく、普通の日本人なら何の文句も出ない作品だったと思います。その部分で気持ちが足を引っ張られたので、素直には絶賛出来ませんでした。金役の橋龍吾は歌手の橋幸夫の息子さんで、お父さんの「メキシカンロック」や「いつでも夢を」が流れ、なんとなく嬉しかったです。最後に佐々部監督は、「半落ち」でも意味のない上司と部下の不倫関係を挿入していましたが、今回も東京での上司と香織の同棲場面は必要なかったと思います。出版や新聞社関係は社内恋愛がいっぱいの刷り込みが、監督にはあるんでしょうか?
タイトルどおり江戸川乱歩原作の世界を、四つのパートのオムニパスにしてそれぞれ別の監督により映画化しています。
1 「火星の運河」 監督竹内スグル 荒涼とした大地を、全裸で意識朦朧として歩き続けている男(浅野忠信)の見たものは・・・。
すみません、全然わかりません。わからんどころか面白くも何ともない。歩く間に、過去がフラッシュバックしているか妄想か、男が薄汚い部屋のベッドで女性をレイプしているようなシーンが挿入されます。女性を殴りまくるので気分が悪い。殴るのがロン毛で浅野なので、もっと気分が悪い。そんな浅野は全シーンほとんで全裸ですが、薄汚さ全開なので、パンツくらいはいてくれと思ってしまいました。これアイスランドで撮影したらしいんですけど、一体何の意味が?私の中ではダントツのベベ作品。
2 「鏡地獄」 監督実相寺昭雄 不可思議な連続殺人事件を追う明智小五郎(浅野忠信)。殺人現場には和鏡が必ずあり、明智は手がかりを探りにその和鏡を作る透(成宮寛貴)に会いに行きます。
4作品の中で一番、最大公約数の人が想像する「江戸川乱歩」の世界ではないかと思います。不可思議な現象には科学的解明がつきながらも、病んでしまった人の心には説明がつかず、和の様式美の中淫靡で誘惑的な世界が繰り広げられます。主演の成宮寛貴は、名前と顔が一致するくらいであまり知りませんでしたが、すごくセクシー。若いのに着物姿も決まっており、妖しい美しさが際立っていました。
ただ未亡人の兄嫁との濡れ場が出てくるのですが、これがどーも。兄嫁が美しくないのです。年の差もかなりある感じで、本当に普通のおばさんで魅力が薄いです。舌を絡ませたディープキスシーンなどエロス満開の演出なのに、イマイチ乗れません。その後SMになだれ込むのですが、この兄嫁さん、体にも魅力がありません。縄で縛ってロウソク攻めなんですが、私はSMはわかりませんが、推定AカップよりCカップはある方がいいんじゃないでしょうか?
実相寺監督によるとエロスは100人いれば100通りだとか。そういえば兄嫁役の人は、この作品にも出ている夫人の原知佐子の若き日に似てなくもない。でもそんなマニアな自分の好みではなく、ここは一般大衆的な視線で キャスティングはした方が良かったんではないかしら?いや監督夫人は女優さんとしては立派な方ですよ!でも縄で縛られてエロチックな感じじゃないなぁ。茶道のお師匠さん役の吉行由実でも良かったかも。Aカップみたいですが。どうでもいいけど浅野よ、明智の役の時くらいロン毛はなんとかしてくれ。寺田農、堀内正美など実相寺監督好みの他の出演者は盛り上げてくれていました。
3 「芋虫」 監督佐藤寿保 戦争で負傷した須永(大森南朋)。手足が切断され火傷のため全身ケロイドの彼に残されているのは、視覚と触覚のみです。妻(岡元夕起子)は、かいがいしくも屈折した態度で夫に接します。そんな二人を監視するように見つめる青年(松田龍平)。彼は須永を美術品として見ていました。
こんなところで増村保造の「清作の妻」と「陰獣」のエッセンスに出会おうとは。妻が淫蕩な気持ちをつのらせて夫に接している場面の数々が非常にエロチック。演じる岡元夕起子もアバンギャルドな雰囲気ながら上品で美しいので、女性の私が観ても嫌悪感はありません。むしろ屈折していますが、夫への深い愛情が感じられます。傷痍軍人のセックスで切なかったのは「ジョニーは戦場へ行った」、滑稽だったのは「ガープの世界」、物悲しくも鬼気迫る欲望を感じたのは「赤い天使」ですが、この作品の須永もきっと自分はその気はなかっただろうに、体は不自由になっても妻におもちゃにされて反応してしまう、男性の性の哀しさみたいなのを感じました。
4 「蟲」 監督カネコアツシ 女優の木下芙蓉(緒川たまき)の運転手をしている柾木(浅野忠信)。彼はアレルギーにより虫がはうようなかゆさに悩んでいます。密かに芙蓉を愛している彼は気持ちがつのり、やがて・・・
画像はこの4話目の作品のものです。ポップにブラックに描いていますが暗さがなく、ユーモアもあるので一番明るい作品に仕上がっています。色々屁理屈こねるより、観て感じて楽しむ作品。緒川たまき、でっかいアフロヘアのお化けみたいなかつらを被らされたり、ペンキを塗りたくられたりでご苦労様でした。素の時の美しさはよーく認識出来ましたんで。浅野は「芋虫」にも明智役でちょろっと出ていて、全編出ずっぱりですが、この作品の彼は気弱なのに、あっと驚くことをしそうなアブナイ感じもさせて、よく役柄に合っていて、初めて好感が持てました。今回はパンツはいてたし。柾木のアレルギーの元は何かわかりませんでしたが、私は人アレルギーかと感じました。彼の狂気と孤独の元のような気がします。
好きな順番は2、3、4、ダントツで最後が1。人を選ぶかも知れませんが、私はまずまず面白かったです。でもR-15はちょっと甘いかも。18禁でもいい気がします。妖しく怪しく危なく、でした。
木曜日にテアトルで「乱歩地獄」とはしごして来ました。両方とも二時間超でしたが、全然毛色の違う作品ということで、疲れも腰痛も感じず楽しんで来ました。
あぁ知らなんだ知らなんだ!シャイロックがあんなに可哀相だったなんて! 今回誰でもが知っているお話ということで、あらすじは割愛。思えば小4の時「少年少女世界の文学」の「シェークスピア」の巻で、この作品を読んだっきり、大人になって読んだことはありませんでした。私は記憶にないのですが、国語の教科書にも載っていたそうです。
シャイロック(アル・パシーノ)はユダヤ人で、狡猾で悪徳金貸しのイメージが広く行き渡っていると思われます。ですがこの作品のでは冒頭で16世紀のヴェネチアでは、いかにユダヤ人が迫害され虐げられているかを印象付けるシーンとナレーションで、観客に伝えます。キリスト教徒はお金を借りる時も居丈高で、借りてやるという態度。人間扱いされず、赤い帽子を被らされ屈辱にまみれて迫害されてきたユダヤ人のシャイロックは、その上キリスト教徒と娘ジェシカが駆け落ちするんですから、自分を馬鹿にし、唾まで吐きかけたアントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)から人肉1ポンドをどうしても取りたくなっても当たり前の気がします。
有名なポーシャ(リン・コリンズ)が男装して法廷に出て「1ポンドだけ切り取るように。血は一滴も流してはならぬ。」も、昔は悪徳シャイロックを懲らしめる爽快な場面だと思っていましたが、まるで一休さんのとんち問答のような言いがかりに思えます。でも一休さんの場合は一泡ふかされるのが権力者の将軍様ですので愉快ですが、こちらは底辺を懸命に生きてきたユダヤ人なので、なんともやり切れません。ポーシャは慈悲深いことの尊さを神の心に例えて諭しますが、ならば同じ人間であるユダヤ人を虐げたキリスト教徒にはそれは間違っていると諭さないのか?これだけシャイロックが如何に自分が辛い目にあっているかを訴えるのに、結局彼の命を助けるのを望んだアントーニオが慈悲深い人になる展開に疑問がいっぱい。キリスト教徒に改宗するようにさせるなんて、人格否定、人権蹂躙じゃないの?いや疑問も何も、有名すぎる原作がそうなんですから、どうしようもないのですが。これは原作どおりなんでしょうか、それとも監督のマイケル・ラドフォードの意向でしょうか?是非その辺が知りたいので、読んでみます。
パシーノは渾身の演技でシャイロックの哀しさと孤独を表現、悪徳どころか知性的で、一人で迫害に戦う強情な強さと、ラストの虚脱感まで寸分隙なく魅せてくれます。アイアンズはちょっと年取りすぎかな?イマイチ影の薄いアントーニオですが、バッサーニオに友情以上の愛を感じている気がしたのは彼が演じているからでしょうか?そのバッサーニオを演じるジョセフ・ファインズは適役で、コスプレ姿も板について(そりゃシェ―クスピアを演じたんだから)素敵でした。でも金借りて求婚なんて情けなや。コリンズは16世紀のお姫様姿がよく似合い、ちょっとケイト・ブランシェットに似ていると思いました。でも清らかな体であなたを待ちますわ、なんて殊勝なことを言う割には、指輪を使って夫の心を翻弄してみるなど、色恋の手練手管に長け、とても処女には思えませんでした、ハイ。
16世紀のヴェニスの風景を再現したセットや美術が素晴らしく、細部にまで凝った作りで感嘆します。誰でも知っている筋を、当時の見せ掛けの華やかさやユダヤ人迫害の矛盾だらけの時代であったことも追求し、重厚な作りで最後まで面白く見せきってもらいました。
2005年11月15日(火) |
「親切なクムジャさん」 |
「復讐者に憐れみを」「オールドボーイ」に続く、パク・チャヌク監督の復讐三部作の完結編。今回は復讐者に清楚な美しさで国民的人気女優と言われるイ・ヨンエを起用し、初めて女性が復讐します。完成度と面白さはカンヌで賞を取った「オールド・ボーイ」でしょうが、ラストに見せるクムジャさんの切ない人間らしい感情に打たれた私は、この作品が一番好きです。
13年の刑期を終え刑務所から出所したクムジャ(イ・ヨンエ)。彼女は同棲していたペク(チェ・ミンシク)に脅迫されて、ペクの誘拐殺人の罪を被り自首したのです。クムジャは出所後にペクに復讐しようと、監獄では天使のように囚人たちに接し、「親切なクムジャさん」と呼ばれていました。出所後自分が種を蒔いて作った人脈を次々と訪れる日々。そんな彼女には、ペクの手によって刑務所入りした直後、オーストラリアに養女に出された娘がいました。
始まってすぐクムジャの13年前の逮捕シーンがテレビから流れます。どこかで見たことがあるなぁと思う方も多いはず。大韓航空機爆破事件のキム・ヒョンヒの逮捕シーンにそっくりなのです。マスクをしても隠せぬ美貌の犯人、彼女を題材にして主演映画を作りたいのセリフなどまるでいっしょ。これは何年たっても韓国人なら誰でも覚えている事件なのだと、印象付けるに効果的です。
刑務所のシーンはユーモラスに描かれていて、女囚のリアルな厳しさと哀しさは感じられませんが、私は楽しかったです。欧米の女囚モノはレズシーンなど男性向けにポルノチックですが、この作品ではグロテスクにブラックに描いているので、返って生々しいです。牢名主みたいな女囚役のコ・スヒは、「吠える犬は噛まない」でペ・ドゥナの友人役が印象深いですが、今回は猛烈な怪女でびっくり。ダンプ松本にそっくりでした。
全2作が復讐の連鎖を強く感じさせるのに対し、今回の復讐は個人の恨みより、自分が殺しておらずとも殺人にかかわった少年や家族への贖罪が感じられます。それは娘ジェニーへの詫びにもなるのです。
パク・チャヌクといえば残虐で過激なシーンが満載、大量出血で貧血になりそうと浮かびますが、今回もそんなシーンがいっぱいです。しかし大きな地球儀、空に浮かぶ文字などちょっとほのぼのするシーンや、残虐シーンの中に挿入される滑稽なシーンがユーモラスで、前2作ほど痛さや抵抗感は薄まっています。それに今回の復讐の相手は子供相手の誘拐殺人犯なので、やられて当然、むしろ精神的には爽快な感じもするのです。
パク・チャヌクで泣くとは思っていなかったのですが、自分の罪を娘に告白するクムジャに「私がママの代わりにその子の親の所に行って謝ってあげる。」とふいをつくジェニーの言葉に、スクリーンのヨンエとともに私も号泣。母を思う素直な娘の心が愛しくて。きっとクムジャは何もしてやったことがない母親なのにと、胸を熱くしたことでしょう。この作品は復讐を前面に出していながら、離れていても片時も子供を忘れていなかった母親のお話なのです。クムジャが母であったからこそが、自分一人で復讐を遂行しなかった理由なのではと思います。
ラストシーンで、ケーキ職人のクムジャが、ジェニーに向かって真っ白いクリスマスケーキを、「真っ白い女性になりなさい。」と渡します。そしてそのクリームをなめる娘を見ながらケーキに顔をつっぷして泣くクムジャ。「復讐を遂げても心は晴れなかった」のナレーションの後の行動です。これはペクに復讐を遂げても、ペクに殺された子供達の親には子供は返ってこないのに、犯罪に加担した自分には「犯罪者にはもったいない幸せ」の娘がそばにいる申し訳なさではないかと思いました。贖罪にはならなかったのですね。そしてもう一度真っ白な女性になりたかったの思いも込められているのでしょう。このコントのような滑稽なシーンの深い切なさに、私はまた涙。3部作の中では一番女性向けではないかと思いました。
イ・ヨンエは本当に美しい!若く見えるというのではなく、年相応の美しさで、女囚シーンは清楚で賢い中に奇妙な不気味さを感じさせるし、赤いシャドーの復讐期は、いつものムードをとっぱらって清潔感皆無のセクシーさを見せます。チェ・ミンシクは今回ゲスト出演的な感じでしょうか?出演シーンも少ないけど、相変わらず存在感は抜群です。ジェニー役のクォン・イェヨンは、ヨンエの娘役なのにおへちゃだなぁと思っていましたが(ごめんね)、くるくる変わる表情が愛らしく、無邪気で素直に自分の感情を母に訴えるジェニーを好演していて、最後の方はすっかり可愛くみえました。その他チャヌク作品の常連さん俳優がカメオ出演しているので、お見逃しなく。
最後にちょっとネタばれ疑問
クムジャとペクの結びつきは強引な感じが字幕ではしました。ジェニーは当時付き合っていたBFの子のような字幕でしたが、本当はペクとの間の子ではないのでしょうか?殺された子の遺族から「この男に子供はいるのか?」と問われて、咄嗟にペクは子供を孕ませられないと答えるクムジャでしたが、それはジェニーの存在を知られてはいけないと思ったからでは?そんな気がするなぁ。私の推理が当たれば、ラストシーンはクムジャの詫びの気持ちもいっぱいで、もっと切ないです。
2005年11月14日(月) |
「ダーク・ウォーター」 |
黒木瞳主演の「仄暗い水の底から」のリメイク。元作は母と娘の身の上に起こったホラーだという以外知りません。劇場は見逃しビデオで観ようと思いつつ、そのままでした。そんな時ハリウッドリメイクの話を聞き、ではこちらからと言うことで。ラインシネマはヒットを予想しての一番大きいスクリーンで上映でしたが、日曜日に2時40分の回というのにガラガラ。公開二日目からこれでは辛いなぁ。ホラー的要素は希薄で地味ですが、しっかり作った秀作で私は気に入りました。
夫と離婚調停中のダリア(ジェニファー・コネリー)は、娘セシー(アリエル・ゲイド)の親権を得るため、早急に住まいが必要でした。今後シングルマザーとして生活を支えるのに高い家賃は無理なため、ニューヨークのルーズベルト島にある古いアパートを借りることにします。しかし饒舌で調子のいい管理会社の男性(ジョン・C・ライリー)の説明とは裏腹、アパートは不吉な雰囲気を醸し出し、ダリア母娘の住む9階の一室は天井にあった薄黒い染みが段々と広がり、水漏れが始まります。それと同時にセシーに奇妙な行動が目立ち始め、夫との争い、セシーの行動、快適とは程遠いアパートに、ダリアの神経は段々と追い詰められていきます。
冒頭ダリアが母親から受ける愛情が薄かったシーンが映されます。離婚を前提としている夫がダリアに言い放った「本当にお前一人で子供が育てられると思っているのか?」というありふれた言葉は、のち彼女は幼い頃母親に捨てられたことが判明すると、重たい意味のある言葉に変化します。
いわくありげな管理人(ピート・プスルスウェイト)、屋上タンクの横のキティちゃんのバッグ(アメリカでも人気なんですね)、天井の薄黒い染み、失跡した上の部屋の住人、人のいないはずの部屋の水漏れ、見えない友達と仲良くするセシーなど、ホラーにありがちなこけおどし的な演出ではなく、ダリアと共に観客も同じように神経を張りつめさせられるよう作られています。
夫側の親権主張理由は、ダリアの父がアル中、母は娘を捨て、そのトラウマがダリアの神経を病み偏頭痛もち、妄想癖があり仕事及び育児は無理というもの。「私に何の関係があるの?」というダリアですが、実は親から受け継いだ血を一番心配していたのは彼女なはず。例えば母と同じように娘のお迎えの時間が守れなかったり、妄想の中にいるとしか思えないセシーを見るとき、私に子供が育てられるだろうか?母のように無責任な母親になってしまうのではないか?自分と母の共通点、娘と自分の共通点を見せ付けられるとき、ダリアの心は大きな叫び声を上げていたはずです。
私にはダリアの気持ちがよくわかります。私の場合は離婚。私の父と母はそれぞれバツ2とバツ1で再婚し、のち20年後離婚。腹違いの兄二人もそれぞれ離婚経験者。母の実家を見渡せば祖父と祖母は離婚こそしていませんが、長きに別居、母の妹弟は4人ですがその内3人が離婚しています。あっちを見てもこっちを見ても離婚・リコン・りこんです。あんな人には絶対なりたくないと思う親と同じ部分を見つけた時のやりきれなさは、本当に悲しいものです。」「縁は切れても血は切れない」という言葉の重さを思い知る時でもあります。
しかし私が恐れだけではなく、その時自分の親を理解しようと努められたのは、ダリアがセシーに語ると同じ「あなたは私の命より大事」という言葉を繰り返し母から聞いたからです。そんな言葉も聞いたことがなく、妄想の母からの「あっちへ行け、お前の顔などみたいくない。」の言葉に怯え怒るダリアが、「私は母親にはなれない。」と悲痛な声を上げる時、私もマリアと共に泣きました。人は機械ではないので、自分の持つ力以上のものも発揮できますが、ダリアのように繊細で傷ついた心を癒せないまま大人になった人に、誰かの支えがなくばそれを求めるのは酷というものです。夫はきっと自分がダリアを幸せにしたいと思って結婚したのでしょう。しかし仕事に疲れて家に帰る身には、しんどい妻だったはず。そう理解すると、数々の平凡なセリフがとても重たい意味を持って反芻されました。
ラスト、ホラーにしてはとても切ない展開で幕切れますが、「あなたは私の命より大事」。そう語ったダリアの言葉が思い出されます。自分のキャパ以上の頑張りを見せてきた彼女が、娘のために出来る最大のことだったのでしょう。一般的なホラーの怖さはありませんが、心理的な疲れのような感覚がありました。古く貧しさを体現している町並みやアパートは、私は不気味さより取り残された哀しさを感じ、見捨てられたダリアの心のようでした。ジェニファー・コネリーは子供のため強くなりたいと願う母親を、繊細な演技でとても好演。そして大変美しいです。白人には珍しい黒髪黒い瞳が清楚さの中の力強さを感じさせます。セシー役のアリエル・ゲイドはとんでもなく可愛い!顔もジェニファーに似ており、こまっしゃくれたところのない愛らしさでした。
監督はブラジルのウォルター・サレス。雨や水のシーンが多く湿った雰囲気が全体的に漂いますが、それはダリアの気持ちを表していたのでしょうか、涙のように感じました。監督のこの作品の捕らえ方は、ホラーではなく母の愛であったと思います。
さて私の母親が私と妹に最後に残した言葉は、「あんたらの苦や悲しみは、お母ちゃんがみんな向こうへ持って行くから。」というもの。お母ちゃんは嘘つきやなと、妹とよく話しますが、家族が全員元気で毎日を過ごせ、私がこうして機嫌よく映画日記を書けるのも、実は亡くなった母が守ってくれているからかも知れない、そう思った作品でした。
2005年11月12日(土) |
「TAKESHIS’」 |
木曜日に観てきました。毎月のように新聞屋さんから梅田ピカデリーと角座のチケットをもらいますが、ここで上映の作品はだいたいラインシネマとかぶっているので、無料でも電車代を使うし往復に時間がかかるので、ラインシネマで観てしまいがちです。それでチケット交換場所に出したり、合間を見て使ったりしていますが、今回はパーにしてしまうのかと思いきや、友人に「乱歩地獄」の日程を決めるのに電話したところ、この作品も観ることになりました。武の集大成、わかる人にだけわかる作品だという絶賛の感想もありましたが、実は私はそういう感想及び作品は大嫌い。映画を観て想像力を豊かにすることはとても大事ですが、あまりに難解な作品を、自分は選ばれし人間だから理解出来たのだというのをとうとうと書く人を見ると、ケッ、そんな作品一生わからんでもええわ、と思ってしまうのです。映画なんてそんな大層なもんじゃなし、大事なのはどれだけ楽しませてくれたか、心を豊かに、または刺激を与えてくれたかが、私は大事だと思っています。しかし期待レベル最低で観たこの作品、意外や結構楽しめました。
売れっ子俳優のビートたけし(ビートたけし)は、自分とそっくりの売れない役者で、今はコンビニの店員で生計を立てている北野武(たけし二役)と知り合います。たけしからサインをもらった武は、その後夢か幻か、自分がたけし主演の映画に入り込んでしまったかのような、混沌とした妄想と夢想の間を行き来するのです。
何故悪くなかったかというと、監督ご本人が「変なもん作ってしまった。頭で考えるのでなく体感する作品。」との言葉を読んだからです。じゃ、わけわからなくてもOKなのね〜と、ものすごく気が楽に。体感とは抽象的な言い回しですが、要するに理屈抜きで感覚が合うか合わないかということかと思います。
ストーリーなんてあってないようなもの、二役以上の役をこなすのは登場人物全てです。もうごちゃらごちゃら、点と線がやがて結ばれなんて一切無しで、結ばれたかと思うとまた叩き切られるのですが、私は不思議と違和感もイライラ感もなく最後まで観られました。たけし特有のお茶らけギャグも、「座頭市」の時は何でここでふざけるかなぁと、嫌悪感すら覚えましたが、今回はクスクスと笑えました。車に乗って死体の海を轢かないようにゆっくり運転する場面など、普通はブラックに感じる場面なのでしょうか、何故か私にはファンタジーめいて見え、ゲームみたいで楽しそうだなと思った瞬間我に返り、えっ?私どうしちゃったの?という感じでした。まんまと監督の罠にはまったんでしょうか?
最初と最後にアメリカ兵が出てきますが、深読みすればたけしの年代では戦争の傷跡もどこかにあるやも知れませんが、あんまり意味も感じ取れないので深追いしないことにします。岸本加代子が、どの場面でも怒鳴り散らし、たけし及び武を罵倒することが生きがいみたいなヒステリックな中年女性で出てきますが、彼女が「HANA-BI」でたけしの妻役をやったことを考えれば、あれは監督の奥さん像じゃないんでしょうか?どんなに理不尽なことをされても耐え、どんなに拳銃をぶっ放しても、彼女にだけは手出しをしませんでしたもん。代わりに愛人役の京野ことみに殴らせていましたが、モノの見事に岸本加代子が圧倒。もう愛情や安らぎはなくても、監督にとって奥さんは別格の存在かなと感じました。
虐げられ続ける武が、ライフルを手に入れた後の行動はスカッとします。こういうわけのわからない作品は、観た後爽快感やカタルシスがあるかないかで印象が随分変わりますが、私には両方そこそこありました。
美輪明弘の「ヨイトマケの唄」は、歌自体は聴いたことがありますが、本人が歌っている姿は初めて観たので、ちょっと感激。「座頭市」でのタップダンスは少々閉口しましたが、この作品では適度のスパイスになった感じがします。「座頭市」で、「おじちゃん、あたいと遊ばない?」と言っていた男の子、大きくなってました。すぐわかったけど。
タダも加味されていますが、私は駄作だとは思いませんでした。面白いとまではいきませんが、退屈もせず。結構肌に合ったということでしょうか?オススメは出来ませんが、案外悪くなかったと言う方もいらっしゃるのではないでしょうか?
2005年11月08日(火) |
「ALWAYS 三丁目の夕日」 |
わぁ〜良かった!いっぱい笑っていっぱい泣いて、今とても暖かくてすっきりした気分です。この作品を観たラインシネマは、数年前10スクリーンのシネコンになりまして、上映していたのは南館の方です。でも近所の人は誰も南館なんて呼びません。旧称の「昭栄座」の方です。未だ布施の商店街の中心部に鎮座まします映画館で、ラインシネマになってから中身は綺麗になったものの、暖かい雰囲気はそのままです。この作品を観るのに絶好の環境で観る事が出来ました。わかってんなぁー、ラインシネマのえらいさん!
昭和33年の東京の下町。星野六子(ムツコ・堀北真希)は、青森から希望を胸に抱いて集団就職に出てきました。しかし住み込みの就職先の「鈴木モータース」は小さな自動車修理工場でがっくり。しかし瞬間湯沸かし器のように怒りっぽいけど根は優しい社長の則文(堤真一)と優しい妻のトモエ(薬師丸ひろこ)の元で頑張ろうと決心します。お向かいは売れない小説家の茶川竜之介が駄菓子屋を営んでいます。竜之介はストリッパーあがりの居酒屋の女将・ヒロミ(小雪)から、知り合いの子供古行淳之介を預かって欲しいと頼まれます。
私は昭和36年生まれなので、この作品の風景はタッチの差でずれていますが、まだ名残のある時代は覚えていますので、あぁ懐かしいなぁと自然と感じます。夫は28年生まれなので、氷で冷やす冷蔵庫、近所にテレビを見に行った話、夏は下着のランニング姿で出歩く男の子たちなど、聞いたことがあります。特に子供の顔が皆すすけているのが笑えます。今は見かけぬ鼻垂れ小僧も、この時代にはたくさん居たでしょう。昔の風景はCGだそうですが、CGというとアクションや大掛かりな仕掛けを連想しがちなので、こんな素朴で懐かしい風景を描くのにも使えるのね、とちょっと感激。近所付き合いの深い、暖かな人との心の触れ合いも、役者さんたちから絶妙に匂い立ちます。
あの時代に自動車修理工に女の子を雇ったり、ワンマン父さんが自分の非を認めて素直に謝ったり、親戚でもない人のところにいるのに、淳之介がちゃんと学校に行けるのはちょっとおかしいです。でも娯楽の少ない時代一生懸命少年小説を読む淳之介たち、自らあばずれと言いながら、やっと裸を見せる仕事から這い上がり、でもとてもまともな結婚なんかと思っていたのに、堅気の竜之介からのプロポーズに女心のこもった涙を見せたヒロミ、戦災のため妻子を亡くした宅間先生の姿などの「当時の誠」に比べると、それはとってもちっぽけなことです。むしろ現代がちょっと顔をのぞかせ、それがただの懐古趣味にしなかったかも知れません。
六ちゃんに誤解を謝る鈴木のセリフは、当時が頑張ればきっと願いが叶うと言う希望に満ちた時代だったと感じられます。三種の神器と言われた冷蔵庫、テレビ、自動車など羽振り良さげな物が鈴木の家に一番に来るのも、生業が自動車関係と言うのがそののちの時代を予感させます。寂しげな目で捨てられた氷入れを見つめる氷屋さんに、いつか時代の衰勢で鈴木家も、という気もしますが、きっとこの夫婦なら、本当にもっと大きな会社にしているでしょう。
うちの実家はメッキ業で、六ちゃんたちのように集団就職でたくさんの人が働きに来ました。家は1階が工場と事務所、2階が自宅と従業員さんたちの食堂になっており、三軒隣には、やはり1階が工場で2階は若い人たちの寮になっていました。うちに来たお兄ちゃんたちも、六ちゃんのように何も知らずに来たのでしょうね。社長が韓国人でびっくりしたかも。みんながお盆やお正月になると実家に帰るのに、何年もずっと寮に居たままの人もいました。きっと事情があったのでしょう。私には休みがないと愚痴っていた母ですが、表は笑顔で一年中世話をしていた姿を、薬師丸ひろこを見て思い出しました。
六ちゃんのように心を鬼にして帰ってくるなと言う親御さんもいたのでしょう。その気持ちが我が家に溢れていたお国の名産品だったのですね。お陰で六ちゃんも鈴木モータースを飛び出さず、上野駅で悪い男に売り飛ばされずに済んだのですから、親とはありがたいものです。
この作品では触れられていませんでしたが、常に他人と寝食を過ごすと言うのはすごくストレスが溜まることで、うちの親は夫婦仲が悪かったこともあり、子供の頃にあまり良い思い出はありません。しかし、ミゼットの荷台に乗った鈴木母子に、働いているお兄ちゃんにねだり、軽トラの荷台に妹と乗って走ってもらったことを思い出し、いっしょにお正月を迎えお年玉をもらったり、会社の慰安旅行についていき、泳ぎを教えてもらったり、この作品は不思議と私に楽しい思い出ばかりを浮かばせます。そういえば物が飛び交うすごい夫婦喧嘩をする両親を止めようと、妹が寮に助けを求めに行ったのを、家の恥だと私が妹を連れ戻しに行けと母に言われ、泣きながら寮に行ったこともあります。あの時のこと、Nさんは覚えているかなぁ。
時代が進み、家と工場が完全に離れて、我が家がちょっとした邸宅になった時、派手な大喧嘩をしていた時はまだましだったと思える、底冷えのする関係に両親が突入したのを覚えている私は、何でも買ってもらえる本当の親が現れた時の淳之介の選択は、すごく正しいと思えるのです。一番大切なものはお金や地位では買えないのですから。今も昔も変わらぬ「良き心」を観客に伝えるのは、この希望に満ちた時代が良いと選択されたのでしょう。常識は時代と共に変わっても、良識は普遍なのではないでしょうか?韓流ブームと相反する嫌韓ブームもチラホラ聞こえる今、庶民が一つになって朝鮮半島出身の力道山を応援する姿を挿入したのも、もしかしたら意味が込められているのかも知れません。
2005年11月06日(日) |
「ブラザーズ・グリム」 |
画像は「人三化け七」役のモニカ・ベルッチさん(というかほとんど化け物)と、なんやまたジミー・大西に戻ったんかい、ジェイソン・ボーンの男前ぶりはどこへいったんや!の、マット・ディモンのキスシーンもどき。このキスは未遂に終わりますれば。予告編を観たとき、グリム童話とギリアムの組み合わせとは、なんとぴったりと思って、大いに期待しましたが、これが予告編の方が面白かったのだな。
19世紀のドイツ。ウィル(マット・ディモン)とジェイコブ(ヒース・レジャー)のグリム兄弟は、魔物に取り付かれている場所に出向き、インチキなお祓いでお金を得ていました。しかし弟のジェイコブは大昔から各地に伝わるお話を掘り起こして、いつか本にしたいと思っています。そんなある日、とうとうインチキがばれた二人は将軍トゥランプに捕まり、ある村に起きている連続少女誘拐事件の解決を命じられるのでした。
今までテリー・ギリアム作品といえば、わけわからんけど何だか面白い、というのが私の感想です。その点この作品はとてもわかり易いです。似て非なる作風ですが、ヘンテコリンだけど面白いというとティム・バートンですが、はっきり変な人の深い切なさが胸を打つバートンと違い、シュールでブラックで摩訶不思議なムードがファンにはたまらないはずのギリアムが、何故かこの作品はとっても普通。面白くないわけじゃないですが、大人も子供のそれなりにわかる面白さで特徴に乏しいのです。その的を絞らない作りが、彼の持ち味を損ねて間延びしている気がします。
グリム童話といえば、ちょっと前に私も読んだ「本当は怖いグリム童話」が話題になりましたが、それを彷彿させるダークな作りかなぁと思っていましたが、本当にちょろっとニュアンスだけいくつか出てきて、面白く筋に絡むという感じじゃありません。いくつ出てきたかわかるかが重要らしいのですが(監督談)、そうーかー?えーと、「赤ずきん」「眠れる森の美女」「カエルの王子」「シンデレラ」「ラプンツェル」「白雪姫」・・・、こんなもんかな?
予告編ではもっと登場かと思ったモニカ・ベルッチですが、ちょっとだけよの出演シーンで、ものすごい存在感です。こんな化け物の役を、まだまだ美女美女だけでいける年齢で引き受ける彼女に好感が持てました。やはりイタリア女の情熱でしょうか?(多分違う)。それとも21世紀のエリザベス・テーラーを狙っているのか?(セルフパロディのような美容整形で若返る「別離」みたいな化け物路線もあった)。ディモンはコスプレは似合いませんでしたが、まぁそれなり。彼はジェイソン・ボーン以外はカッコよく見えないんですねぇ。ヒース・レジャーは美貌を隠し誠実で堅物の伝承オタクを上手く演じていました。女狩人役のレナ・ヘディは凛々しく美しくて、名前を覚えておこうと思います。ピーター・ストーメアは、「コンスタンティン」に続き、お茶目さんな悪役が楽しかったです。これからこの路線なんでしょうか?
公開直後の今のところ、ギリアムファンは絶賛、それ以外はアホ・バカ扱いの評価ですが、私は期待はずれでしたが、まぁ普通には面白かったかな?意気込んで観るとダメですが、時間に余裕があればどうぞ。
昨年大評判だった「ソウ SAW」を観たとき、巷でいうほど大傑作ではないと感じたけれど、このカテゴリーにしたらそこそこ楽しめたので、今回も観る気に。上映も前回と同じナビオTOHOです。「1」の方は確か100人前後のスクリーンだったはずでが、今回は一番大きな第一スクリーンで700席あまりのところ。監督と脚本のジェームズ・ワンとリー・ワネルも出世したねぇと思いきや、今回は製作総指揮に二人は回り、監督はこれが初めてでしょうか、ダーリン・リン・バウズマンです。
巷を震撼させたシリアル・キラー、ジグソウ(トビン・ベル)がまた猟奇的殺人事件を起こします。これはマシュー刑事(ドニー・ウォルバーグ)をおびき出すためのもので、今は捜査からはずれた仕事をしている彼は、以前から引き続きジグソウを追うケリー刑事(ディナ・メイヤー)から、捜査の協力を依頼されます。ジグソウと対峙したマシューは、ビデオカメラに写るある屋敷に捕らわれた殺人ゲームのいけにえの中に、別れた妻と共に去った自分の息子ダニエルを見つけます。ジグソウはいくつかの謎を与え、それを実行した者が命を救われると言います。
前回は2人だけだったのに対し、今回ゲームの標的になる人数は8人。密室だったのは屋敷全部になり、一層「CUBE」が思い起こされます。が、善良な市民が集められた「CUBE」に比べ、こちらは最初から訳有り風の面々です。ジグソウのテープ録音での、「集められた者たちの共通項」と、「頭脳の後ろに鍵がある」のヒントも、「共通項」は何回も数人が刑務所に入った話が出ては先に進みませんが、一人ダニエルだけムショ帰りでないのを知っている観客には、ピーンと来ます。そして「頭脳の後ろ」は普通考えたらわかるやろ?と、別の意味でイライラ。最初不用意な行動で死人が出ているのに、また不用意な行動に出た一人が死にますが、その時もあんだけ人数がいるのに、助け方が最後までわからんかったんか?と、これまたイライラ。
ゲームに参加させられている人々が繰り広げる露悪的な展開も、行き詰る心理戦というには知性が足りません。罠のはめ方も予想出来る範囲で、前作のようなやっと搾り出した答えの壮絶さというのには及ばす、やっぱ犯人が今回は割れているし、続編作るというのは無理だったのよ。予約したから電車に乗っている以外、走って劇場まで来たのに無駄足だったかのぉと思いつつ観ていましたが、捕らわれ人たちの「共通項」のある秘密が付録されているのが明かされると、一気に畳み掛ける展開になってきます。
さぁここからは文句なし。今回は文句の出るオチではございませんでした。なるほどなぁ。これは目を凝らして観て、頭をひねって考えてみてもある程度可能。生き残った人にも納得。それでこそ犯行動機の初志貫徹というものです。それまでアホやこいつら、と思って観ていたのがすっかり騙され、全然読めてませでした。アホなのは私だったのだな。展開の面白さは前作ですが、ラストが納得出来るのはこっちでした。ジグソウの大きなお世話的犯行理由も前回ミソをつけましたが、今回のオチは心情的にも理解出来ます。あんまり書くとネタバレになるので、この辺で。絶対前作を観ていた方が面白いです。
1日の映画の日に観てきました。本当はパリス・ヒルトンの絶叫を観に、梅田ブルクまで「蝋人形の館」を観に行く予定が、仕事が長引いて アウト。それで近くのラインシネマで上映の「春の雪」に変更しました。私が兼業主婦でありながら去年100本観た原動力は、職場から自転車で5分、自宅から10分のラインシネマ(10スクリーンもあるよー)にあるのですな。
大正時代の初期、侯爵の令息である松枝清顕(妻夫木聡)と伯爵令嬢の綾倉聡子(竹内結子)は幼い頃からほのかな恋心を抱いていましたが、清顕は聡子に冷たく接します。その頃聡子に宮家からの縁談が舞い込み、没落寸前の聡子の家はこれを承諾。しかしこの機に及んで聡子への愛が目覚めた清顕は、激しく聡子を求めます。それに応じる聡子。しかしその後に二人を待ち構えていたものは・・・。
という内容。原作は三島由紀夫で私は未読ですが有名なお話なので、内容は知っていました。予告編を観た時、これ以上の内容は出なさそうなので、パスしようと思っていましたが、まぁ千円だし期待しなければそこそこ行けるかな?と思っていましたが、予想通りでありました。調度品や衣装、ロケの風景やセットなど目を楽しませてくれるのですが、如何せん主役二人を含む華族様たちが、バッタもんの雰囲気満々なんです。耽美的な雰囲気も期待していましが、それもあまり感じませんでした。
妻夫木聡は軟弱だけどイマドキの好青年の役柄は好ましく演じられますが、この作品の清顕は、幼いけど残酷なクールさを感じさせないといけないのに、温かみがあるので聡子と結ばれた後の気持ちが一転した感が希薄です。心の変化にも理由付けが乏しく、心の結びつきより肉体の欲が勝った感じがします。それも若い男性なので真理なのでしょうが、高貴な身分でも人の心は皆いっしょ、を表現したいわけではなさそうなので、自分や相手の立場もわきまえずわがままで幼稚な情熱しか感じられません。彼の容姿は端整ですが、華族を演じるには気品が足りません。美貌は落ちますが、中村七之助のような麻呂っぽい顔立ちの、演技力がある人が演じる方が良かったと思います。
竹内結子の方は、時代を感じさせる着物やイブニング姿、髪型などが良く似合い大変美しいです。が、持って生まれた血筋を感じさせる「高貴なおひい様」を演じるには、やはりエレガントさと気品が不足していました。庶民で生きる中の上品さとは根本的に違うと思うのです。私が昔の映画を観ていつも感嘆するのは、日本語が美しいのと女優さんたちが内面の気品を本当に感じさせる演技をすることです。生活形態が大幅に変わってしまった現代では、彼女の演技が限界なのでしょうか?
親世代も時代が刻々と変わっていく中、自分たちの栄華衰退を見極める場面もなく、身の保身に一生懸命なだけです。モチーフに華族を持ってきただけの感じで、この作品は普遍的な人の心を映すのではなく、華族がキーポイントだと思ったので最後まで乗れませんでした。
救いは若尾文子、岸田今日子、大楠道代の往年の大女優の名演技。ひとことふたこと喋るだけで、一気に心を引き込ませる力があり、主役二人を観ているより彼女達を観ている方が楽しかったです。彼女達だけで千円の値打ちは充分ありました。他には高岡蒼祐が清顕の親友で、「パッチギ!」とは打って変わった昔の無骨で誠実な青年を演じ、好感が持てました。でも彼ほど良い人が何故清顕みたいなジコチュー男と仲が良いの?男の友情ではなく愛情なのかという気もしました。その他、若尾文子は奈良の尼寺のご門跡の役だったはずですが、尼寺の尼御前を初め、言葉使いが京都のように感じました。関西と言っても、大阪・京都・奈良・神戸・和歌山、みな微妙に違います。これは私だけの感覚かもしれませんので、他の方のご意見も聞いてみたいです。
原作は高貴で麗しくてお耽美なんでしょうねぇ。読んでみたくなりました。
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