ケイケイの映画日記
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昨日かかっていた病院に手術キャンセルの電話をしました。「手術についてお話があるのですが」というと、「主治医が退職して、対応出来る者がおりません。」(!!!!!)。私が手術の予定が連絡あった時も、何も聞かされなかったというと、「こちらも急なことで忙しかったんです。」
私の病状について説明出来る医者がいないのに、手術をしようとするこの不思儀。忙しいなら尚更、主治医が急に退職した、つきましては手術の延期は受けてもらえるか?と一言電話でもあれば、私は延期後この病院で新しい主治医の元、手術を受けていたでしょう。今となっては、この横柄な人間扱いされていない対応は、私には筋腫に対する考え方を、もう一度元から考え直す機会になったのですから、良かったかも知れません。
今日診てもらったのは、出産の辛かった妹をずっと診てくれた先生です。大きな総合病院におられたのですが、現在は開業されているそう。私も何度かお会いしたこともあり、「お姉ちゃん、絶対ええ先生やから診て貰い。」の言葉に、心を強くしての受診です。しかし小規模の個人のクリニックですので、手術は出来ません。今日は私の筋腫についての見解を聞きに行くつもりでした。
今までの経緯を丁寧に聞いて下さり、「その病院の対応はありえへんわなぁー」の言葉に勇気付けられ、それから内診。診断としては「要観察で大丈夫」でした。「肉腫の疑いありから始まって、タチの悪い筋腫、良心のある医者なら要観察では済まさない、自分の妻ならすぐ切れという、ここまで言って手術しないなら、何が起きても事故責任とまで言われたんですが。」というと、先生は笑いながら「僕の家内やったら取るなと言うわ。」と仰る。 筋腫の手術を立会いを含めたら五千件、執刀は千五百件こなした先生は、私の筋腫は特別なものではなく、スタンダードなものだと仰いました。
「僕の考えでは筋腫というのはな、たとえ20cmの物でも生活に支障がないのなら、墓場まで持って行っていいと思ってます。痛み・大出血・貧血・頻尿、どれもないねんやろ?それなら症状が出てから考えたらええやんか。どんな小さい手術でもリスクはあるで。但し筋腫は小さくならないし、これから大きくなる可能性があるのは確か。膣式でいくなら今が手術しどきやな。手術しようと思うなら、家の近所の病院に紹介状は書きますよ。僕は要観察を薦めます。」
この話を聞いて、スタンスが違うだけで、「元主治医」も決して間違った見解ではないなと思いました。いずれ切るなら、ホルモン療法やしんどい思いをする前に取ってしまう、これも正しい見解ではあると思いました。「筋腫の手術は自分が決める」、改めてその言葉を反芻しています。私の最初の筋腫に対しての考え方は、今日の先生の仰るようなものだったのに、結局元主治医の言葉に怯えて決断したんだなぁと、今思っています。
やはり観察と手術は同じ病院がいいので、心当たりが一軒あるので、近々そこも受診しようと思っています。私がキャンセルしたのは、安心して自分の体を任せられないとわかったからで、手術を否定しているのではありません。極端な言い方をすれば、腕は普通でも人間的に優れている先生がいいのです。これは難しいですよね。腕は良いけど人間として×の医者の方が多いもん。
2005年09月28日(水) |
「忍 SHINOBI」 |
日曜日に角座で見て来ました。ラインシネマで会員常時千円で観られますが、新聞屋さんからもらった劇場鑑賞券があったので、金額的にミナミまで出たのですが、大画面で観た方が堪能出来るタイプの娯楽時代劇でした。オダギリジョーと仲間由起恵人気か、劇場は若い人が多かったですが、お子様からお年寄りまで楽しめる作品に仕上がったいます。
400年の間敵対する伊賀と甲賀。しかしその跡取りである伊賀の朧(仲間由起恵)と甲賀の弦之介(オダギリジョー)は恋仲でした。そんな時、天下を手にした徳川家康は、各々五人ずつ精鋭を選び戦わせ、どちらが生き残ったかによって次期将軍を決めるというのです。
最初は「メゾン・ド・ヒミコ」のオダギリジョーがとても素敵で、それで観ようと思った作品。冒頭簡単な描写ですが、美男美女の二人の出会いは若々しく清々しく、一目で恋に落ちたのには説得力があるなぁと思っていると、荘厳にして雄大な渓谷や川のせせらぎなどを映すタイトルが素晴らしく、そこへ岩代太郎の力強いBGMが流れ、まさに大自然といった風情です。このタイトルバックにおぉ!となった私は、これは拾い物かも?感が上昇しました。
十人の忍者は各々個性的でキャラが確立されており、とても楽しませてくれます。服が縄のようになるものアリ、手裏剣もどきの名手アリ、変身、人間もどき?に色仕掛け、不死身など十人が十人とも違います。忍術というより妖術のようですが、それぞれが強い印象を残し、何より観ていてスピードがあり面白い!CGやワイヤーアクションもありますが、中国の武侠物よりも、忍者が主人公なので活劇として素直に楽しめます。
私が印象に残ったのは、甲賀は黒谷友香扮する男を色仕掛けで誘い込み、毒を吐いて殺す陽炎。小さい時から毒を飲ませてそういう体にしたのですが、そのため愛する人とは抱擁もキスも出来ず、女性として無念の人生を送っています。登場シーンは多くないのですが、黒谷友香はメキメキ演技が上手くなっており、充分に陽炎の哀しさを表現していました。伊賀は椎名桔平扮する薬師寺天膳。不死身ゆえ、世の中の栄華衰勢を何百年も冷徹に見てきた彼は、平穏な光の当たる世の中には、闇に生きる忍びは不要、忍びは忍びらしい潔い死に様があると、弦之介に語ります。なんか忍者の美学だなぁ、ふんふんと納得。予告編で白塗り白髪のロンゲの彼に、ゲェ〜と思っていた私は反省。やはりこの役者、ただのねずみじゃないのですな。
他の忍びも人を殺すことだけを教え込まれた自分たちには、忍びとしてしか生きる道はないと、弦之介と朧に訴えるのに対し、絶対和ぼくを主張する弦之介は、愛は忍者を救うより恋は盲目に見えて、一軍の将としての器は大丈夫か?と思わせます。それとセリフに「さすが甲賀の弦之介」とあるだけで、手下より強そうには見えません。ていうか、忍者の中で一番魅力にかけるのが彼でした。どうしたオダギリジョー!「〜ヒミコ」の春彦はどこに行ったんだ!
それは朧にも言える事でしたが、ラスト近く伊賀と甲賀の将としての彼らの選択は、立派に大役を果たすもので、素直に胸を打ちました。私は泣きませんでしたが、啜り泣きが場内から聞こえ、それも納得。人の上に立つ者の責任の重さと厳しさを、わかりやすく表現していました。
仲間由起恵は寂しげで儚い、しかし芯の強い印象を持っているので、「ごくせん」や「トリック」の彼女は、悪くないけどなぁ程度です。しかしこの作品では私の持つイメージの彼女がいました。ラストも余韻があり、後世に残る傑作などではないですが、活劇に楽しみハラハラドキドキ、恋アリ涙アリと、娯楽作として私は充分合格点でした。
2005年09月27日(火) |
手術キャンセルします |
お騒がせしております。昨日の今日ですが、驚愕の事実が判明したので、手術キャンセルすることにしました。今日病院へ術前の説明が欲しいので、診察の予約をしたいと電話したところ、予約は来院せねば出来ないとか。それはいいのです。「どうしたらいいんでしょう?」問うと、主治医を聞かれました。N先生だと答えると、
「N先生はよそへ移られて、もう在籍されていません。」
はぁ〜〜〜〜〜〜?
入院の説明時に、看護婦さんから入院したら主治医や執刀医が変わるかもしれないとは聞いていました。「でも現在主治医のNも手術に立ち会いますし、婦人科の医師全員でカバーしますので、ご安心下さい。」と言われて、それは納得していました。でも辞めるのと代わるのは違いますよね?もちろん私は主治医が辞めたのは何も聞いていません。普通の人の感覚では考えられないでしょう?診察に来いはおろか、電話の一本もなし。先生が忙しいのなら、他の人からでも連絡はあってしかるべきではないでしょうか?道理で術式が決まらないはず。手術前の説明は、やはりどんな小さな手術でもあるそうです。あのままいう通りにしておれば、私のことを一度も診察したことのない人ばっかりの中で、命を預けなければならなかったんです。
バカにすんなよ!人の体を何だと思ってるのだ!
もし手術中に事故があったり、命にかかわるようなことがあっても、隠されること必死です。明日MRIなど資料のコピーをもらいに行って、じっくり次の病院を探します。一度手術に同意したのですから、子宮摘出でも構わないから、今度は納得出来て信頼出来る医師を見つけるまで妥協せずいようと思います。土壇場でいい勉強になりました。やっぱり自分の体は受身ではなく積極的に守らなくてはいけませんね。
さぁ10月だ!「蝉しぐれ」も「シンシティ」も「コープスブライド」も全部観て、今年も100本目指すぞ!では明日は「SINOBI」の感想書きます。本当にお騒がせしました。
2005年09月26日(月) |
手術日決定、なんですが・・・ |
病院から連絡があり、10月4日手術が決定しました。ですが・・・。最終の診察は8月の頭で、その時は筋腫の炎症が治まって小さくなっているので単純膣式で可能だろうと聞いていました。はっきりしたことは、MRIを撮ってからとのことでした。その時手術の予約を10月の初旬にとお願いして来ました。8月の24日にMRIを撮り、それからは自宅待機、急激に痛みがあればすぐ来て下さいとのことでしたが、痛みは時々ありましたが、診察してもらうほどのことはありませんでした。
9月中に手術の方式が決まり、説明のための受診があるのかと思っていましたが、なしのつぶて。あまり連絡がないので21日にこちらから病院に連絡しました。そしたら「まだ10月の手術の予定が立っていません。」との看護婦さんのお言葉。へっ?あと10日で10月やで?
「今日お電話があって、明日入院ということはありませんよね?」と私が問うと、「それはありません。」とのお答えでしたが、26日の今日仕事中に携帯が鳴り、折り返し電話すると「30日に入院して下さい」。それやったら今日言って明日入院と変わらんやんけ。手術日が火曜日なので、金曜日に麻酔科の検査があるので入院して欲しいとの事。土日の1日2日は先生の許可があれば外泊出来ますからっていうことですが、う〜ん。
30日は外来で診察してもらおうと再度電話すると、入院は3日でも良いとの事。それはいいのですが、私の不信感が爆発したのは、きちんとした術式を聞いたところ、看護士さんが出られて「先生からはどのように聞いていらっしゃいますか?」と問われたので、これこれしかじか。「それでは前日の診察で決定すると思います」。
はぁ〜〜〜〜?
どういうこと、どういうこと?お腹切るのとそうでないのは全然違うよ。傷跡が残るか、入院日数がどのくらいか、術後の回復、退院後穿く下着の種類だって違う!私の回復がダイレクトに生活の関わる夫や子供も大変だし、パートとはいえ仕事もあるし、先生に復職の予定を伝えねばならないし、私がいない間カバーして下さる夜の受付さんだって困ります。
兄嫁に相談すると、こんなんでは待っている家族が不安なので、一度先生直々が無理でも、術式くらいはちゃんと教えてもらえるように電話した方が良いと言われました。明日再度電話してみます。
貧血もなく痛みもあまりなく、大きさもそれほどでもなく、ホルモン治療も今のところ無しの私は、筋腫患者としては軽い方なのでしょう。しかし医者にとっては日常茶飯の話でも、44歳目前の女の子宮が無くなるのは、本人にとっては大変なことです。術後の回復が芳しくないと、夫や子供にも負担がかかります。不信感マックスの今、事としだいによっては手術の延期か取りやめ、別の病院にかかることも考えています。
すみません、ごめんなさい、全然ダメでした。ホ・ジノ監督は「八月のクリスマス」と「春の日は過ぎ行く」の二つ観て、一勝一大敗の監督。「春の日〜」の演出が生理的に合わず、良いという感想を読んでも「私はそこがいややねん」と思ってしまう始末でした。それでも観ようと思ったのは、お互いの配偶者が不倫をして事故で意識不明の重体、その看病をしているうち、二人の間には愛が芽生え・・・といった、とっても成瀬己喜男な題材だったから。ホ監督の演出が「春の日〜」のイライラ感ではなく、「八クリ」の慎み深い情感に感じるかもと期待していましたが、私には「春の日〜」以上のしんどい作品でした。今回ネタばれです。
コンサート会場の照明ディレクター・インス(ペ・ヨンジュン)は、仕事中に妻の自動車事故の連絡を受け、ソウルから遠く離れたある町まで駆けつけます。しかし妻は会社には休暇届を出し、インスには出張と偽っての不倫旅行で起こした事故だったのです。病院には不倫相手の妻ソヨン(ソン・イェジン)が先に来ていました。意識不明の重体の二人の世話のため、同じホテルに泊まりこんで世話をするうち、二人の間には微妙な感情が芽生え始めます。
ホ・ジノはセリフやはっきりとした背景を説明せず、観客に登場人物の心を 理解してもらうのを委ねる手法の人です。しかし私はリアリティ至上主義ではありませんが、この作品でははぶきすぎ。まず昔とはだいぶ韓国の家庭事情が違うでしょうが、例え沖縄の人が北海道で事故を起こすような距離であっても、夫婦二組に合計八人の親がいるはずなのに、見舞うのがインスの妻の父だけとは不自然過ぎ。これは韓国に限らず、日本の方でもご理解いただけると思います。
妻の不貞をインスは義父には伝えません。これは優しさや思慮深さとは違い、このあと妻とどういう関係に転ぶかわからないインスの優柔不断さに私は思えました。それに何より「お家」大事の韓国人が、どんな形にしろ意識不明の大怪我をした嫁のことを、自分の母に知らせないのは不自然です。まぁそういうシーンを挿入すると、「こんな嫁、のしつけて実家に返せ!」となるので、作風に合わなかったかもしれませんが、あまりに辻褄が合いません。
親が来ないのだから、兄弟も来ない。4人とも一人っ子?そんなアホな。私の妹がソヨンの立場なら、どんな遠くでも妹の心の支えになればと、飛んで行きます。その割には他人のインスの部下が見舞いに来て、「俺が変わりに事故に合えば良かった」みたいにセリフを言って、ウジウジグタグタヨン様は絡む。しかし泣いて吐露する割には、妻への愛憎がセリフのみで語られるだけで(ベッドの妻に「死ねば良かったんだ」、二人が意識を取り戻したらというソヨンの問いに「復讐しましょう」など)、観客の心に入り込む描写が希薄です。
例えばインスがICUから個室に移った妻の裸体を拭くシーンがありますが、上半身の背中だけを見せ、無表情でちょっと腕を拭くだけでは、私にはインスの心が見えません。このシーン前にインスは妻が不倫相手とベッドでいちゃついているビデオを見ています。夫婦にはそれが一番ではありませんが、セックスも大切なことです。この体は他の男と寝た不潔な体だという嫌悪感、それと同時に自分も愛した体なのだという情がない交ぜで描かれなければ、意味がありません。そう思わすには時間も短いしヨン様も演技不足でした。
そうやって葛藤が希薄なまま、二人は打ち解けたと思ったらすぐベッドイン。この時のシーンは二人とも戸惑いが感じられて良かったですが、その戸惑いは、翌日にも引き継がれるはずですが、こういう異常な状況下で結ばれた男女の複雑で深い心理描写はありません。特に躾の行き届いたお嬢さん育ちを思わせるソヨンは、もっと夫ある身で他の男に抱かれたことに、ある種の喜びと後悔の入り混じる、複雑な女心があっても良さそうですがそれもなし。事故で対向車の相手が死んだことは、二人には直接関係ありませんが、その事実の上の関係であることにも、この人たちは一切頓着しません。悪いと思いながらとか、やはりいけないことだとか、そういう人の持つ倫理観との葛藤が観るものの共感を呼ぶのだと思うのですが。
極めつけはインスの妻が意識を取り戻し、ソヨンの夫が亡くなってしまう際のお通夜に、出席者が寝ているおばあさんだけなこと。いくら家から遠く病院内であげたかも知れませんが、ありえません。夜通し親兄弟から親戚縁者まで賑わうものです。ソヨンの夫が不貞をしての大事故を起こした家の恥晒し者だから誰も行かないというのなら、尚更一度も夫の親が出てこないのは不自然です。
結ばれてはいけない状況下であっても、形は不倫であっても、インスとソヨンは人からのそしりは少ない状況で、スタート地点から観客の同情を呼びます。インスの妻のふしだらさをビデオで強調、「煙草を頂戴」と病人が夫に言う様子など、意識して堕落した妻に見せています。彼らの夫と妻は学生時代からの関係だとわかりますが、そのことは「ハッピーエンド」でも描かれています。この作品ではこんな情けない夫なら妻も浮気がしたかろうと共感も出来、その情けない夫を演じるチェ・ミンシクの絶妙の演技が、情けなさの中のうらぶれた哀愁を感じさせ、観客に同情心を駆り立てましたが、インスは妻に不倫を問うこともなく、何事もなかったように接っし、あくまで優しく理解のある夫です。でも私には優しさではなく優柔不断で女々しい男に見えました。
ラストはもしかしたら、インスは妻と別れたのかもしれません。荷造りしている場面が挿入されていました。ラストは晴れて二人はを予感させますが、これってハッピーエンド?。切なさが大幅に減ります。やはり不倫は結ばれなかったり、結ばれても何もかも捨てて、石持て追われてもあなたと二人だけ、という状況で終わらねば共感出来ません。やることはやってしまっているので、結局は自分たちの配偶者と同じ穴のムジナではないでしょうか?メリル・ストリープが「恋に落ちて」でデ・ニーロに言ってたでしょう?「セックスしてどうなるの?後に別れが待っているだけよ。」この作風なら、エッチなしの方が心に残ったと思います。
2005年09月22日(木) |
「丹下左膳余話 百万両の壺」 |
山中貞雄の有名なこの作品、ずっと観たいと熱望していて、今日九条のヌーヴォのモーニングで観て来ました。ヌーヴォは本当に久しぶりで、カップホルダーのついたゆったりした座席に変わり、ロビーには自動販売機も。家に帰る途中立ち寄ったスーパーで友人に出くわし「九条まで(家から45分ほど)70年前の邦画観に行っててん。」というと、信じられへんという表情をされました。まっ、当たり前の反応かと。でもヌーヴォには観に行くのが当たり前の人ばっかりみたいで、平日にしては盛況でした。
江戸時代のとある藩。先祖伝来の薄汚いこけ猿の壺が、実は100万両のありかの秘密が隠されていることが判明します。しかしこの壺を藩主は婿養子に行った弟源三郎(沢村国太郎)に、そうとは知らず払い下げたから大変。奥方萩野はこれをクズ屋に売ってしまいます。ひょんなことからその壺を手にした七兵衛が殺され、多少縁のあった矢場の女将お藤(喜代三)と、用心棒件愛人の浪人・丹下左膳(大河内伝次郎)が、遺児のちょび安の面倒をみる羽目となります。そこから壺を探す藩主と源三郎が入り乱れ、てんやわんやの騒動が始まります。
監督の山中貞雄は、この作品の他「河内山宗春」「人情紙風船」の三作品だけを残し、わずか28歳の若さで戦病死した伝説の監督です。「人情紙風船」の方は以前ケーブルで観て、全く古さを感じさせない心理描写に、これは後生に語り継がれるのは当たり前だと感嘆しました。
この作品は、一言で言えばドタバタ喜劇なのですが、これがもう面白い!左膳とお藤のニヤニヤして観てしまう口喧嘩。二人が口とは裏腹、情け深い愛情をちょび安に与える人情。部屋住みから婿養子へと気の使いっぱなしの人生のはずが、気楽でのん気な様がユーモラスな源三郎、そして活気に溢れた江戸の町や人々の様子など、最後の最後まで観客に大サービスです。昔の人はこの作品を観て大笑いして、明日への活力をもらっていたのでしょう。
笑うだけではなく、七兵衛が刺される時にその様子を映さず、犬の遠吠えで左膳に知らせる描写にはうま〜い!と感心。遠眼鏡で七兵衛の浮気を奥方が知る時のおかしさ、お金の工面に困ってお藤とちょび安がしょんぼり縁側に座るショットの絶妙さ、家出するチョビ安を知らせるのは焦げたお餅、ちょび安の敵を討つ左膳の描写など、これが軽演劇なら「イヨッ!」と声をかけたくなるシーンの連続です。
沢村国太郎は加東大介に似てるなぁと思っていたら、お兄さんなのですね。長門裕之・津川雅彦のお父さんです。大河内伝次郎は、私が子供の頃「オヨヨ、オヨオヨ」と、セリフが不明瞭な様子を盛んに物真似されていましたが、いかつくヘソ曲がりだけど根は優しい男っぷりが素敵でした。身の軽さにも驚きでした。この作品では、戦後GHQにカットされた殺陣シーンが20秒ほど復活して挿入されています。物足りなかったのは、もっとチャンバラシーンがあると思っていたので、それくらいかな?
確か去年トヨエツでリメイクされているはずです。オリジナルを観もせず、こんな名高い作品をリメイクするなんてと思っていましたが、この内容なら面白く出来ているかも。こちらも観たいです。若い方は新作中心に観ていらっしゃると思いますが、昔々のこの名作に触れて、日本映画を誇りに思って下さい。
昨日いつもお世話になっている、「閑話休題」のみぃさんから、映画のバトンが来ました。「映画好きの100の質問」など、生来この手は年齢が災いしてか、(だって幼稚園前から映画館で観ているもん)整理しきれず苦手なのですが、みぃさんのバトンは一つだけじゃなく、結構何個も答えが書けて、これなら大丈夫かな?とお引き受けしました。
■ 好きな映画のジャンルは?
☆ ヒューマンなもの ☆ 社会派娯楽作 ☆ 戦争のその後を描くもの ☆ とにかく泣けるもの ☆ 夫婦もの ☆ 痛い恋愛もの ☆ 親子の愛情や葛藤を描くもの ☆ ホラー全般 ☆ どんでん返しもの ☆ サスペンス、ミステリー
こんなもんでしょうか?ホラーは別に格調高くなくても、血がドバドバ、内臓破裂のグロでも大丈夫。コメディも観ますけど、あんまり積極的には観ないかも。ラブコメははっきり苦手。もっと苦手はSF。芸術の薫り高いのもたまにはいいけど、基本的には世話物・娯楽作が好き。何でも観ますが。絶対だめなのは長い映画。3時間とか3時間半なんてとんでもない。2時間半でも躊躇します。理由は集中力が途切れるから。体力が続かん。昔みたいに途中休憩入れてくれるなら、全然OKです。
■ その中で面白かったもの(3つほど) 3つ無理!思いつくままに書きます。後から考えます。
「かくも長き不在」 (一番泣いた映画) 「ひまわり」 (ソフィア・ローレンが泣くたび一緒に泣く) 「ライアンの娘」 (名画座で「風と共に去りぬ」の併映なので観たが、こっちの方が良かった) 「アパートの鍵貸します」(一番好きなビリー・ワイルダー) 「暴力脱獄」 (一番好きなポール・ニューマン) 「明日に向かって撃て!」 「スティング」 「リトル・ロマンス」(以上三作品で、ジョージ・ロイ・ヒルは私の神様) 「アラバマ物語」 (「ローマの休日」より素敵なグレゴリー・ペック) 「ポセイドン・アドベンチャー」(私を映画の世界へ引きずり込んだ作品) 「エクソシスト」 (一番好きなホラー) 「ミシシッピィ・バーニング」(一番好きな社会派作品) 「クライング・ゲーム」(とにかく面白かった!オチが全く読めなかった) 「二十日鼠と人間」 (原作より良いと思う。ゲーリー・シニーズはもっと映画撮って!) 「シティ・オブ・ゴッド」(近年これくらい魅せられた作品はなし。10年に1本の作品)
もう15本?もっとあるけどこれくらいにします。きりがない。アジア映画もあるし(まだある!)
次アジア映画ね。 「鬼婆」 (我が映画人生一番の衝撃作にして邦画NO.1) 「清作の妻」 (一番好きな増村作品) 「東海道四谷怪談」 (様式美に圧倒される) 「ラブソング」 (一番好きな香港映画) 「色情男女」 (一番好きな業界もの) 「覇王別姫」 (とにかく圧倒される。これ級なら4時間でも 可) 「シバジ」 (韓国人の嫁なら、これが泣かずに観りゃりょうかの作品) 「オアシス」 (一番好きな韓国映画)
えっ?こんだけ?少な!やっぱアメリカ映画ばっかり観ていたんですね。最近の作品が少ないのが寂しいですが、我が人生不朽の名作となると、偏るもんですね。お金のかかってない映画ばっかり。
で、三本は 「リトル・ロマンス」 「ポセイドン・アドベンチャー」 「かくも長き不在」かなぁ。 5本にして!「アパートの鍵貸します」と「スティング」を入れたい!あぁ、やっぱり10本!(果てしないので止めます)
■ 今後観たい映画 「蝉しぐれ」 「親切なクムジャさん」 「ブラザーズ・グリム」 「Mr.&Mrs.スミス」 「乱歩地獄」
それでは、次のバトンの人探してきまーす。
2005年09月19日(月) |
「ファンタスティック・フォー」(吹き替え版) |
昨日末っ子と観てきました。公開二日目ということですが、劇場は寂しい入り。時間帯も夕方5時過ぎでしたので、先に映画を観て夕食を食べてみたいな、お手軽なポップコーンムービーでした。
天才的科学者リード(ヨアン・グリフィス)は、長年の友人で宇宙飛行士であるベン(マイケル・チクリス)とともに、宇宙に関する研究の資金援助者を探していました。引き受けてくれたのは実業家のビクター(ジュリアン・マクマホン)。しかし彼の元では、リードの別れた恋人スーザン(ジェシカ・アルバ)が働いていました。いよいよ実験開始となった時、突然の宇宙嵐の放射線のせいで、リード、ベン、スーザン、スーザンの弟のジョニー(クリス・エヴァンス)の四人は、そのせいで超能力を身につけることになります。
有名なマーベルコミックが原作で、日本でも私が子供の時に、「宇宙忍者ゴームズ」として、アニメが放送されていました。あまり覚えていませんが、シンクをアフレコしていた関敬六(だったかな?)の、「ムッシュムラムラ」のキメ台詞はよく覚えています。どうもシリーズ化したいようで、今回は「ファンタスティック・フォー」結成の由来と、四人の超能力の紹介を主に脚本が書かれたようです。
そのためストーリーの面白さが、いささか手抜きに感じられます。だいたいヒーローって、世のため人の為に頑張るんじゃないの?あれは自分たちが引き起こした惨事の収集に向かっただけなんじゃないの?と、あれ〜〜〜?感が私を襲います。この手の作品は、敵キャラがチャーミングなほど好感度はアップしますが、それに当たるビクターが変貌していく様子にイマイチ説得力がないのが残念。
「X-メン」のように、ミュータントになった苦悩はベンだけ描かれますが、これはまずまず。ちょっと頭が軽そうに見えますが、私は「X−メン」は少々辛気臭い感じがして、作品自体もあまり好きではなかったので、軽いテイストのこの作品には合っていたと思います。
それより自分の超能力を謳歌するジョニーの楽天さが私は好きです。スノーボードや自動車などでの彼の見せ場は楽しかったです。リードはボス役には影薄く優柔不断なタイプで、これでこんな個性的な集団をまとめられるんかいの疑問もありますが、この手の男性は、愛しの「ER」のマーク・グリーン@アンソニー・エドワーズとかぶり、私的にタイプなので不問。全身ゴムの超能力の見せ方は、インクレディブル夫人の方がかっこよかったですが、これもまずまず。ジェシカ・アルバ目当ての方は、彼女の下着姿やバツグンの身体能力を生かすシーン、健康的なラブシーンもあり、満足されると思います。このように4人はなかなかチャーミングでした。
ユーモアも友情も恋もアクションもほどほど、気軽で当たり障り無く平凡ですが、観ている間はそこそこ楽しめます。勢い込んで観るほどの作品ではありませんが、若い人のデートムービーや家族連れのファミリームービーとしてなら合格点はあげてもいいかと思いました。続編あるかなぁ〜。
2005年09月17日(土) |
「メゾン・ド・ヒミコ」 |
「運命じゃない人」に続き、梅田ガーデンシネマで鑑賞です。友人といっしょだったので、早めに出てお茶でも飲もうと12時の回の分を11時前に整理券をもらいに行くと、既に10番目。レディースデーでもないのに続々と人が入り、平日お昼ながら超満員に。大阪はここでしか上映がないのがもったいないくらいです。「ジョゼと虎と魚たち」と同じく、監督犬童一心、脚本渡辺あやのコンビが送る、とびきりの美しさと切なさと暖かさに溢れたお話です。
小さな塗装会社の事務員沙織は、亡くなった母の治療費のための借金があり、お金に困っていました。そんな沙織に若くて美しい春彦(オダギリジョー)が訪ねてきます。休日に老人ホームの手伝いをして欲しいと、法外な日給を提示します。そこは母と沙織を捨て、ゲイとなった父卑弥呼(田中泯) が作ったゲイのためのホーム「メゾン・ド・ヒミコ」でした。春彦は父の恋人なのです。そして卑弥呼は今、癌で余命いくばくもない状態です。お金だけではない気持ちを抱きながら、沙織はホームを手伝うことにします。
メゾン・ド・ヒミコの様子が素晴らしいです。フランスの避暑地に出てくるような美しい外観、華やかで品のいい調度品、ダイニングにはみんなで集える大きな木のテーブル、まじかな海を見下ろすウッドデッキ、庭にはプールと、それはそれは素敵。高い美意識を貫く卑弥呼を象徴しているものです。
病の床の卑弥呼の部屋は、点滴の道具や薬がなければ、病んだ人の部屋とは思えぬほどの美しさに溢れています。染められぬ白髪のためか常にターバンを巻き、だらしない部屋着ではなくゆるやかなロングドレスに身を包み、爪には真っ赤なマニュキュアを忘れない卑弥呼は、病であっても決して美への手綱を緩めません。その姿は凛々しく凄みさえ感じさせます。
しかしその生活観の希薄さは、やはり卑弥呼の生きてきた世界をも現しています。死が近い病人は、もっともっとだらしなくても、他人に迷惑をかけてもいいはず。家庭を捨てしがらみを捨て、自分に正直に生きるとは、これほど厳しいことなのかと思い知らされます。 そんな彼が自分の美意識から遠く離れたところにいるはずの、自分に罵詈雑言を浴びせる沙織に、「私にも言いたいことがあるの。あなたが好きよ。」の言葉に、私は胸がいっぱいになりました。その一言に、父としての沙織へのありったけの思いが込められていたと思います。演じる田中泯も素晴らしい!「たそがれ清兵衛」のように、舞踏家としての見せ場もなく、ほとんど動きのない演技の中、最後まで気高く生きた卑弥呼を、印象深く感慨深く見せてくれます。
最初は毛嫌いしていたゲイたちの、彼女を包む暖かさに段々心を開いていく沙織の様子が嬉しいです。柴咲コウは、仏頂面でいつも眉間に皺を寄せ、若さも清潔感もなく心までブスの沙織を、ノーメイクで大好演。可愛げなく意固地な沙織を、暖かく幸せになって欲しいと願う気持ちでずっと観られたのは、彼女の好演があってこそです。怒ることはあっても、決して涙を流さなかった彼女が2度泣くのですが、これは女性ならではの涙です。女になった父への反発でしょうか、自分の性を否定していたように思う彼女の心が、痛みとともに女性へと成長していく過程に感じました。
若い頃から男性を捨てて生きてきた人、ずっとゲイであることを隠して生きてきた人、仕事も生き方も様々な人たちが、「ゲイである」という一点で結ばれたホームは、老境に入りしがらみから開放された清々しさを感じさせ、違和感や嫌悪感は全くありませんでした。綺麗に描きすぎている感は残りますが、リアルに描けばいいってもんでもないでしょう。卑弥呼の厳しさと対照的な憐れさや暖かさ、ユーモアを感じさせる彼らも、とても素敵でした。
忘れちゃならないのがオダギリジョー。何作か彼の作品は観ていますが、これが一番良かったです。女の私がゲイの役で一番フェロモンを感じるというもなんですが。常に白いワイシャツを着ていて、貞操観念に欠けるらしいゲイの性衝動を語る春彦を、素直に受け入れられたのは彼の存在あってこそです。ゲイというと女々しい男性と受け取られがちですが、色々な意味でやはり間違いなく男性だというのも、春彦は教えてくれます。
最後の最後で、ホームのみんなは嬉しいプレゼントを沙織に贈ります。それはゲイの父を何故母は愛したか、父はどんな人だったのだろうということを、沙織に教えてくれるだろうと感じる出来事です。自分の親を知ると言うことは自分を知ることにも繋がるわけで。そして沙織と春彦の関係へも受け継がれることでしょう。卑弥呼の残した「あなたが好きよ」という言葉の重みは、きっと彼女の人生で宝物になるはず。良かったね、沙織ちゃん。ピキピキピッキー。
昨日梅田ガーデンシネマで観てきました。ネットでお付き合いのある方全部が絶賛の作品です。なのに大阪では、ここのみ上映で時間は12時55分とレイトのみという冷遇ぶり。本当は今日のレディースデーに観ようと思っていましたが、昨日はきちんと定時の12時過ぎに仕事が終わり、迷わず電車に飛び乗りました。でも1800円ではありません。シネフェスタの会員券で300円引いてもらえます。意地でも1800円は払わないもんねぇ〜。
人を疑うことを知らない日本一のいい人宮田(中村靖日)は、婚約者のあゆみ(板谷由夏)に逃げられたばかり。そんな宮田を心配する親友の探偵神田(山中聡)は、レストランで婚約を破棄したばかりの真紀(霧島れいか)をナンパ、宮田に話すよう薦めます。そしてその時やくざの組長(山下規介)は・・・。
もうこれ以上書きません。書いたのは始まってほんの10分くらいの出来事です。全然ストーリーを頭に入れずに観て欲しいです。その方が絶対面白いから。一夜の出来事を宮田、神田、組長のそれぞれの視点で描き、そこへ複雑と意外性で女性二人が絡むのですが、もー面白いのなんの。こうなった理由は、あ〜そうだったのぉ〜と、時間があちこちに飛んで描かれますが、すごくわかり易くて、一つ一つジグソーパズルが埋められていくようです。
セリフも下世話で気が利いています。「30過ぎてまだ偶然の出会いなんて信じてんの?もうクラス替えも文化祭もないよ。」「やくざが本気出したら、警察よりいい仕事するよ。」「人一人殺して始末するのは、お金がかかっちゃうの。そんなリスク犯してまで殺す値打ちのある人なんて、まずいないよ。」などなど、書き出したらきりがないくらい。読むとそうでもないかもしれませんが、俳優さんが喋るとその場にピタっとはまって、始終くすくすしっぱなしでした。
あれ〜、この人そういう人だったのぉ?の意外性というかやっぱりというか、人間がその人の職業や状態、外見についての思い込みや先入観など、意外と当たらないもんなんですね。サスペンスかと思ったらコメディだったり、手に汗握るかと思ったら、まったりしょぼかったり、その辺も変幻自在です。
監督はこれが初監督の内田けんじ。ぴあのフィルムフェスティバルで賞を取り、PFFスカラシップの権利を得て、この作品を完成させたそうです。出だしこそ自主制作のような素人っぽさが感じられますが、ウェイターや上司、タクシーの運転手、やくざの若頭など小さな役まで隅々目が行き届き、観客に強い印象を残します。
この映画日記は、あまり映画を観ない方にも、大作話題作以外の小品でも、面白い作品がたくさんあると知っていただけたら、と思う気持ちを込めて書いています。無名の出演者と監督でこんなに面白いものが出来るのかと、きっと楽しんでいただける作品です。一番名が知られているはずの山下規介は、お父さんのジェームズ三木にそっくりになっていて、びっくり!ちょっと濃い目のお顔が災いして、イマイチ出演作に恵まれませんが、この手のちょっと変な人路線はいいかもしれません。
何か上手くやられたなぁと、ニコニコ劇場を出た後、じーと帰りの電車で思い起こすと、観ている時は軽く感じたせりふやシチュエーションの重みが、じわじわ心に広がっていきます。私は本当に神田クンは宮田クンのこと、心配してたと思いますよ。賛同の方は、どうぞ私までご連絡下さい。
2005年09月11日(日) |
「チャーリーとチョコレート工場」 |
ウィリー・ウォンカ、ウィリー・ウォンカ♪あっ、すみません。今劇中出てきたジョニデ扮するウィリー・ウォンカを賛美する歌が、頭の中を駆け巡っています。このシーンはね、遊園地みたいに人形がいっぱいでクルクル回って歌を奏でてね、でもそのセルロイドの人形の顔が所々剥げてて怪しくってね、それで最後はね・・・。あぁ〜言いたい!「ビッグ・フィッシュ」でついに円熟の大人になってしまったのか?のティム・バートンが、華やかでヘンテコな毒を撒き散らしながら、昔から戻ってきた作品です。
15年前ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)のチョコは大人気でした。しかしチョコのレシピを盗むスパイの出現で、ウォンカはいやけがさし、チョコレート工場の従業員を全て解雇。工場を閉鎖後はどうしてチョコを作っているのかまか不思議でしたが、今も彼のチョコは大人気です。ある日ウォンカは、無作為にチョコの包み紙に入れた五枚のゴールデンチケットを手にした者を、工場見学に招待すると約束します。激しいチケット争奪戦の中、5人の子供達がチケットを手にしました。その中には激貧ながら仲睦まじい両親、寝たきりながら孫に愛を注ぐ4人の祖父母と暮らすチャーリー(フレディ・ハイモア)もいました。
オープニング、スペクタクル風にチョコの製造過程を写す画面と、ダニー・エルフマンのこれまた仰々しいスコアがマッチ、あっという間にバートンの世界に引き込まれます。上に書いたシーンは、ウォンカ初登場のシーンです。それまでもバートンらしい演出で楽しませてくれていましたが、工場見学ツアーが始まると、それに拍車をかけた毒々しくカラフルな、悪趣味寸止めのバートンの世界が繰り広げられます。お菓子で作られた工場内は、ちょっと「ヘンデルとグレーテル」を思わせます。
そのパワーに負けないくらいすごいのが子供達。チャーリー以外まともな子はおらず、生意気で勝気で躾の足らないわがままなクソガキ(あら、ごめんなさ〜い)ばっかりで、たった一人がもらえる特別賞を、我も我もと虎視眈々なのですが、世の中そんなに甘くない。性格の悪さが足を引っ張り、みんなにユニークなお仕置きが待っています。これがなかなかぞ〜とするお仕置きで、劇場でチラホラ見かけた良い子の皆さんの教育に、大変ヨロシク出来ております。その度に教育的指導の入った歌詞のミュージカルシーンもどきを見せてくれる、小人の従業員のウンパルンパも面白く観ました。
白塗りでオカッパ、ローズ色のリップのジョニデは、気持ち悪くもチャーミングなのはさすが。一番大切なのは家族という着地は、平凡ですがこれは児童文学が原作なので、ひねりがないのは仕方ないこと。それより児童文学がこんなに毒を持っているなんて、と考える方が楽しめます。
いつまでも少年ならぬ子供心を失わなかったバートンですが、子供世代に対しての正しい心への目配せだけではなく、貧しいのに両方の親の面倒をみていたり、厳格なのは子を思うためというウォンカの父の描写などに、家庭を持ち子供を持ったバートンの、親への感謝の気持ちも汲み取れます。子を持って知る親の恩でしょうか?私にも覚えがあります。筋的には平凡ですが、バートン復活を感じる嬉しくパワーのある作品で、私は大変楽しめました。
この作品が上映されるというのは、早くから耳にしてして楽しみにしていました。勤め先の若先生がこういう題材はお好きなので、お教えしたところ、速攻観てこられ痛く感激され、ただいま左の画像のポスターが、病院の待合室に貼ってあります。ミズテンで薦めてしまったので早く観なくっちゃ、ということでレディースデーの今日、ナビオTOHOにて鑑賞。ヒットしているらしく、大きな第3スクリーンが7割くらいの入りでした。
カルカッタの修道院内の女子高で教鞭を取るマザー・テレサ(オリビア・ハッセー)は、院長との考えたかの相違から、ダージリンへ戻るはずの汽車のホームで、「私は乾く」と言い残す、貧しい行き倒れの人に出会います。このことが神からの啓示と受け取ったマザーはカルカッタに留まり、捨て子、ハンセン氏病、ホームレスの人々など、貧しい者の為に一生を捧げる決意をします。彼女の考えに共鳴する人々はたくさん現れ、やがて新しい修道会「神の愛の宣教者会」を作ります。
誰もが知っている実在の修道女マザー・テレサの30代から87歳で生涯を閉じるまでの伝記映画です。演じるハッセーは20年来の念願の役だったそうで、冒頭彼女が登場のシーンは息を呑むほどマザーに生き写しでびっくりしました。実際のマザーとオリビアは全然似ていません。しかし中年期はつけ鼻をするくらいで特殊メークもないのに、私が頭に描いていたマザー・テレサそのものが目の前に居たのです。人の清らかな心、善なる心をとても高揚させるストーリーの中、「オリビア・ハッセー」はどこにもおらず、そこにいたのはマザー。オリビアのこの役にかける気概がとても伝わってきます。
しかしながら、話の展開がNHKの大河ドラマのダイジェスト版のような感じです。調べてみると、イタリアではテレビドラマとして3時間の作品として放送されたそうです。聖女としてではなく、一修道女として人間味溢れたマザーを描こうとしているのはわかります。しかしそれにしては、事が上手く運びすぎる。金銭的苦労、保守派のカトリックの神父や修道女との対立、異なる宗教が混在するインドでのカトリックへの無理解、彼女の功績を利用しようとする人からのスキャンダルなど、物の見事に一瞬で解決してしまうのです。
「神がお望みなら、私の願いは叶うでしょう」のマザーのセリフがありますが、確かに神の思し召しかも知れませんが、これでは綺麗に描きすぎ。マザーとて挫折や自分の思い通りにならなかった苦悩はあったはずで、、彼女の思いが全て神と同化しているような描き方は、人間臭いマザーの描写とちぐはくで、やはり彼女は神に選ばれし特別な人のような印象が残ります。それは謙虚に神の使いとして生きた、マザーの本意と離れるのではないのでしょうか?
私は俗っぽく下世話な人間ですが、マザーのような恵まれない人々のため一生を捧げる人に、強い憧れの気持ちもあります。この作品を観て、マザーのようには出来なくても、私にも人のために何か出来ることは?と考えたりします。ですので、私の心に響く言霊はたくさん出てきました。しかし私がテレビで見た、本当のマザー・テレサに仕えた修道女たちの、心の底からの輝く笑顔の訳は、残念ながら見つけられませんでした。そういった無条件に人の心をひきつける強さには、少し欠けていたように思います。
本気で貧者を救いたいと思うなら、政界に進出すべきだというマスコミの問いに、「私は自分に出来ることをするだけです。」と語ったマザー。私が「ニワトリはハダシだ」で書いた、50歳になったら障害者の授産所で働きたいとの思いは、実はマザーのこの言葉から影響を受けました。私が「自分が出来ること」は、これだと思ったからです。
急ぎ足で編集したため、味わい深さには少し欠けますが、上記に書いたように、人の清らかな善なる心は充分に刺激されます。それは作品の完成度より遥かに上だとは言い切れる作品です。帰りの電車で、ダウン症と思われる女性が、下車駅を通り過ぎて気が付き、パニックのようになっていました。引き返し方を教えようと私が駆け寄る前に、彼女の隣の若く綺麗な娘さんが彼女の手を引き、ホームの反対側の電車に乗せてあげていました。自分が教えてあげるより、もっと嬉しい光景を見て、これも末っ子が20歳になるまであせらなくてもいいよという、私に対する神の思し召しかもと思いました。
ワォ〜、素敵素敵!元作のドラマが大好きだった私、ニコール主演で映画化決定を聞いた時から、首を長くして待っていました!内容は部分的なリメイクで完全リメイクじゃないけど、現代的な味付けはあまり感じず、ドラマへのオマージュたっぷり。懐かしくもラブリー(気恥ずかしい単語だが、これがぴったんこ)な作品に仕上がっていました。画像はドラマのサマンサとダーリン。このダーリンは初代の私の好きだったディック・ヨーク。サムは日本のビスケットのCMにも出た、ご存知エリザベス・モンゴメリーです。このドラマは、大きな庭のある天井の高い家、見た事もない大きな冷蔵庫、夫婦で招き招かれるホーム・パーティなど、アメリカってすごいんだなぁーと子供心に印象深く、そして毎回の魔法の見せ方、シチュエーションがとても面白く、笑いもシモネタや人を嘲るなどはなく、毒はないけど暖かい笑いがいっぱいでした。そして毎回見せるダーリンとサムのキスシーンは、セクシーさはないけど夫婦の愛を感じるものでした。私がアメリカ文化に憧れ、洋画が好きになった原点のドラマかも知れません。
落ち目の俳優ジャック(ウィル・フェレル)に、60年代大人気だった「奥様は魔女」のリメイクで、ダーリンの役が舞い込みます。筋立てから、観る人の目がサマンサ役の女優にいくのを恐れた姑息なジャックは、無名の新人女優を探します。白羽の矢が立ったのが、お鼻ピクピクも上手に決まるイザベル(ニコール・キッドマン)。しかしイザベルは、魔法の世界にいやけがさし、人間の世界に来た本当の魔女だったのです。
他愛もないストーリーですが、これが本当にキュートです。ニコールはちょっとぶりっ子風演技ながらとても可愛く、大女優の風格を隠し、楽しくライトに演じてくれて、サマンサ=モンゴメリーのイメージが強い私にも違和感がありません。イザベルは新妻のサマンサのようなほんのりしたお色気はありませんが、独身なのでこれは当然。ニコールのファッションは全部が私のツボで、工夫次第では流行にも乗り遅れない、幅広い年齢層や体型に似合いそうなパステルカラーのフェミニンな衣装がいっぱい。いい年をして、いつまでも可愛い服に目がいく私は、大いに勉強になりました。
最初フェレルの顔を見た時、進化の遅い類人猿系の顔ながら、ロン・パールマンほど味がなく、大丈夫かいなと危惧しましたが、元々はイヤな奴という設定なので、これもOK。ちょっとオーバーアクト気味でしたが、コメディですから、あんなもんです。イザベルとの愛が育まれるにつれ、いい人そうに見えてくるのもご愛嬌でした。
御大マイケル・ケインがイザベルの父役。この人は今もう一度ピークが来ているのかと思うほど、何を演じても絶好調。白人版モーガン・フリーマンみたいです。ダンディな魔法使いですが、セットの絵から出てきたり、グリーンジャイアントの緑のお兄さんになって登場などとても楽しく、監督・脚本のノーラ・エフロン、製作のペニー・マーシャルの、ハリウッドで女性として多分作る側で一番成功した二人の女性は、敬意を込めてユーモアをまぶしてケインにも見せ場を作っているのが好感が持てます。
もう一人の大御所は、ドラマでサムの母親を演じる大女優アイリス役のシャーリー・マクレーン。これがエンドラを演じていた、アグネス・ムーアヘッドにそっくり!もう嬉しくて嬉しくて。存在感たっぷりながら、押しの強さを感じさせない演技で、使いにくいはずのかつての大スターながら、そこそこ新作にも顔を見せる彼女の秘訣が見えた気がしました。
本当に深みもひねりも何にもありゃしない作品ですが、観ている間、私はすごーく楽しかった!お菓子に例えると、甘くて優しい上品なマシュマロといったところですか。難を言えば、この手の作品はもう少し時間が短い方が印象が上がります。15分ほど短くても良かったかと思います。クララおばさま、アーサーおじさん、それにグラディスさんまで登場とは、嬉しい限りでした。これ続編を作る気がするなぁ。アメリカでヒットしたのか気になるところ。こんな楽しいリメイクなら、「可愛い魔女ジニー」も、是非映画でリメイクして欲しいです。主演はリンジー・ローハンで。
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