ケイケイの映画日記
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良かった良かった!すごーく良かった!延び延びになっていたこの作品を、たった今シネフェスタで観てきたところです。ネットを通じて親しくさせて頂いている方たちには、概ね好評なので、しっかりした作品だとは思っていたのですが、ここで描かれる在日は北朝鮮系の人たちで、韓国系の私には日本の方たちが思っている以上の温度差があります。その点を危惧していたのですが、南北関係なく在日の心がじっくり掘り下げられていました。
話の筋は簡単で、今から35年ほど前の京都が舞台。日本の学校と朝鮮学校の不良たちの対立を舞台に、国籍を越えた高校生達の恋や友情が描かれます。
私自身は幼稚園から短大まで日本の学校に通名で通学しており、夫も子供たちもそうです。一番多い在日のパターンではないかと思います。子供の頃「あんた南?北?」と、在日の友人から聞かれたりしたので、この時代はどちらに属する在日であるかというのは、今以上に大問題だったと思います。 アンソンの壮行会でも、北に帰国することに疑問のない彼らから、「民団(韓国系)は、北に帰国したら悲惨な目に会うと言うてる。」というセリフが出てきます。その当時から日本人と同化した生活をしていた私たちより、民族服で学校に通い本名で通す朝鮮学校の彼は、当時の差別の激しさを考えれば、肝の据わった人たちだったと思います。
乱闘シーンがふんだんに出てきます。それに引いてしまう方も多いかと思いますが、やったらやり返す連続で、何度も何度も殴り殴られ血みどろになるのは一見不毛に見えますが、これだけお互い命懸けで戦うと、お互い「あいつなかなかやるやないか。」と言う気持ちになるんじゃないでしょうか?「お前ら気持ち悪いんじゃ」とはっきり言われた方が、何故気持ち悪いのか、差別の心を持つのか反論でき、ことなかれで差別の気持ちを隠して接せられるより、いっそ気持ち良かったです。この作品では暴力を通して描かれていましたが、差別をなくすには、建前でなく本音の気持ちをぶつける大切さが言いたかったと感じました。きっと彼らは5年たち10年たち町でばったり会ったなら、「おぉ!」と声を掛け合い、お酒でも酌み交わすのではないかと思います。
それ以上にお互いを理解するのは、やはり人を愛する純粋な気持ちなのだということも、しっかり織り込まれています。康介はキョンジャに一目ぼれしたことをきっかけに、ハングル語を覚え、在日の人たちの気持ちを一生懸命理解しようとする姿、自分の子を生んでくれた日本人の桃子と子供のため、北朝鮮に帰国するというのを止めると言うアンソン、そんな彼に「私とこの子も連れてって、そして守ってや」という桃子に、人を愛する、守りたいと言う気持ちは、全てのことを越えさせるのだと感じます。
同胞同士助け合い、血の通った者通しのような情の深い付き合い方をする様子や、父親が亡くなったため、幼い弟妹を養うため朝鮮学校を中退して看護婦になるガンジャの姿など、何より家族を大切にする心も織り込まれ、私が在日の最もよき部分だと思うところが描かれていて、嬉しく思いました。
私自身は父親のおかげで金銭的には苦労したことがなく、今も裕福ではありませんが、それなりに楽しく暮しています。しかし、この作品に描かれる最底辺の貧乏暮らしや、チェドキの葬式で父親の語った部分に昔を重ねる人も、在日にはたくさんいるのも事実です。「目が合ういうて、全部けんかしとったら体がもたへんやろ。」とアンソンに言われるチェドキが、康介に言った、「俺もほんまはけんかするのん、怖いねん。角を曲がったら100人くらい待ち伏せされてる夢みるねん。」と言うセリフは、学歴もなく財力もなく、差別に対抗するのは腕っぷししかなかった在日の、必死で虚勢を張りながら生きなければならなかった本音が垣間見え、同じ血の私には胸に残るセリフでした。笑いと血と汗の風景の中、繊細な描写の数々が印象深いです。
井筒監督は、私は割りと好きな監督なのですが、こんなにデリケートに在日の心をすくい上げて描いているのには、本当にびっくりし、そして大変感激もしました。今春私の甥は、本名で公立中学の先生になります。友人の息子さんは、大手私鉄の入社が決まりました。在日の帰化も多くなっていますが、反面マスコミ関係を中心に、本名で仕事をする人も多くなっています。 表向きは格段に差別も減っています。気がつけば私の兄弟も、兄二人は家族と帰化し、日本の人と結婚した妹も今は日本人。夫の妹二人も家族ごと帰化しました。合わせて8家族のうち、夫の兄家族とうちの家族だけが韓国人です。
この作品は、私は上手に在日の気持ちを描いているし、日本の人に反省を求めている作品とは感じませんでしたが、一方的に在日寄りの作品であると言いきった感想も多く、少々ショックです。何故帰化しないのかと問われたら、こういうことにショックを受ける自分がいるからです。日本人になったとて、韓嫌派の人の心無い言葉を聞くたびに、あぁ日本人になって良かったと安堵するのではなく、怒りを感じる自分がいるでしょう。その時私は自分の出自を捨てた人間だと、きっと別の葛藤が待っているはずです。この作品にキング牧師の話が出てきますが、アメリカの黒人問題に比べたら、在日なんてまだまだ歴史は浅いです。私は韓国人のまま、社会に自分が何を貢献出来るか模索しながら、日本に溶け込んで生きていくつもりです。あと30年後40年後、そういえば在日って差別対象やったんやなと、振り返る日がくれば、私は日本人のお婆さんになっているかも知れません。きっと未来は明るいぞ!
2005年02月25日(金) |
「ニワトリはハダシだ」 |
うぉー、良かった!と雄叫びを上げたくなる快作でした。昨日シネフェスタで観てきました。え?ここは何ぼなんでも雑なんちゃう?という箇所も1,2,3,4・・・。しかし、えーい小さいこと言うな!せこいことにこだわらんと、このバイタリティを見習わんかい!と、スクリーン狭しと豪快に楽しくお説教されている気分でした。
京都・舞鶴。知的障害のある15才のサム(勇)は、潜水夫の父と共に暮らしています。在日朝鮮人の母は、サムに対する教育方針の違いから、妹チャル(千春)を連れ近所に別居しています。元気に養護学校に通うサムは、担任の直子先生が大好きです。今世間は検察と暴力団の癒着が関心の的で、その事件にかかわっている検事は直子先生の母の兄で、捜索しているのは、直子先生の父である警部でした。その頃暴力団重山組組長が検事に賄賂として送ったベンツが盗難されます。その中には機密費の帳簿が入っていました。偶然そのベンツに乗り込んだサムは、帳簿を丸暗記してしまいます。そのことが明るみに出ると困る警察と暴力団の両方からサムは追われ、両親と直子先生は、体を張ってサムを守ります。
私は舞鶴には行ったことがないのですが、あまりの古いというか懐かしいというか、昔ながらの街並みがそこかしこに残っているのにびっくり。劇中でも「岸壁の母」が流れますが、それがぴったりの風情です。確かに底辺の匂いがするのでが、明るさや人情の方が全面に出ていました。
登場人物のキャラがとにかく魅力的。サムはちょっと目には障害はないように見えますが、抜群の暗記力が特徴なので自閉症でしょうか?多動症、感情をコントロールするのが苦手など、障害児独特の様子を写しながらも、伸びやかさが強調されています。チャルと共に鳥の羽の張りぼてをつけて遊ぶ様子に、それが表れていました。チャルは本当に可愛い!おしゃまでお喋りで、こちらも自然児でした。
父と母の原田芳雄と倍賞美津子は共に60歳前後で、年齢的にはチチハハではなくジジババなのですが、スケールが大きく人間的な豊かさ、そして愛嬌が必要とされるこの役にはぴったりです。以前ダウン症児のおられる方から聞いたのですが、ドラマや本では美談仕立てが多いが、本当は障害児が生まれると、離婚する家庭も多いのだと仰っていました。サムが一人前に自立できるよう潜水夫の修行をさす男親らしい厳しさと、母親を恋しがる息子に「サムに嫌われたら、チチは生きている意味がないわ。」とふてくされたり、何より別居時に手のかかる障害児を手放さなかった彼に、息子への深い愛が感じられます。
「ニワトリハダシだ」と言うのは、わかりきったことの例えだそう。「あんた、結婚する時、私がチョンでもええか?って聞いたら、にわとりははだしやって言うたなぁ。」と言う母。そんなわかりきったこと、承知の上だということでしょうか?きっとこの夫なら障害児を生んだ妻に、心無い言葉など言わなかったでしょう。
直子先生を演じるのは新人の肘井美佳。並み居るお歴々の中で、恐れ多くも出演者トップに名前が出ます。期待に恥じない演技で、元気いっぱい素直さと与える愛の豊かさがとても好感が持てます。喜怒哀楽のはっきりした猪突猛進の女性で、相手が権力者であろうがやくざであろうが、殴られようが一向にひるまず、殴る蹴る噛み付くと言う素晴らしさ。一発殴られたら三発殴り返すようなたくましさで、痛快でした。これはサムの母もいっしょで、息子を羽交い絞めにするやくざに包丁を持って応戦するなど、女性の描き方が私のツボにどんぴしゃで、最近これほど愉快に思って観たヒロインたちはいません。
肝心の盗難車や機密書類の扱いがご都合主義で雑ですが、まぁええわい。市井以下の底辺とも言える人々の、体を張って生き抜く姿を、お涙頂戴ではなく、猥雑な風景の中、弾けんばかりのエネルギーと明るさと笑いで描いた作品です。直子先生の母が、「布袋さんはな、時々知恵の薄い人のふりをして この世に出てきはるねん。あの子ら(養護学校の子たち)だけが、あんたを救えるんよ。」と、仕事を続けるよう娘に言います。サムの母が彼らのために作ろうとしているような授産所が、うちの近所にもあります。ずっと昔から50歳になったらそこで働きたいと思っている私ですが、この言葉に、なるほど私は救われたかったのかと思った次第。直子先生の気性は、とっても私に似てるし。容姿が似てたらもっと良かったのに。
村上春樹原作、市川準監督の作品です。今日はこの作品を上映しているテアトル梅田はメンズデーで、大阪はここだけの公開と相まってか、そこそこの入りでした。男性の一人客が多かったようです。感想はと言うと、とても書くのが難しい作品です。ですが孤独と喪失感を描いて、透明感と穏やかさを併せ持った不思議な作品です。75分と短い時間ながら、言葉足らずも感じませんでした。ネタバレがある作品ではないですが、今日は短いのでストーリーに触れた感想です。
トニー滝谷(イッセー尾形)の本当の名前は、トニー滝谷でした。ジャズマンの父親(尾形の二役)が名づけました。「生と死は髪の毛一本の間」の戦争から帰還した父は、家族が戦争でみんな亡くなり、結婚したトニーの母も、トニーを産むと3日で亡くなりました。その名前のため学校でも浮いてしまい、仕事で旅から旅の父親はいつも不在で、一人で過ごす時間ばかりの彼は、さほどそれが苦痛と思わず、孤独も感じませんでした。美大を出てデザイン会社に就職したトニーは、それからイラストの仕事で独立します。そんな彼の元へ、仕事関係で小沼英子(宮沢りえ)がトニーを訪ねます。初めて心から女性を愛した彼は、英子と結婚します。初めて孤独から身を遠くする日々。もしまたあの日々に戻ることになったら自分はどうなるのか?そんな一抹の不安を抱えながら毎日を過ごす彼に、突然英子が交通事故で亡くなります。
物語は西島秀俊のナレーションが中心で進み、登場人物のセリフは最小限です。時々ナレーションにセリフがかぶり珍しい趣向ですが、前衛的な雰囲気ではなく、クラシックな邦画を観ているような錯覚にとらわれます。西島のナレーションは、ぼそぼそ喋る彼の持ち味が生かされ、静かですが無機的ではなく素朴な感じがし、セットや登場人物が少ない画面を上手く補っていました。
滝谷はいかにも孤独という風情ではありません。普通に見れば落ち着いていているだけに見えます。しかし人としての感情がとても希薄なのです。喜怒哀楽がまるで伝わってこない。ですが冷たいという感じもありません。これは常に孤独と向かい合った人生を送っているから、感情を表す場所もなかったのかと感じました。しかしトニーのような生い立ちで、破天荒に生きる人もたくさんいるわけで、彼の生真面目さがよく伝わってきます。演じるイッセー尾形は、こんな空気に溶け込むような滝谷を、しっかり観客の心に入り込ませます。
大人になってからは2年か3年に一度くらい会う父子に、ナレーションは、「省三郎(父)は父親には向いていない、トニーも息子に向いていない。」と語ります。そうでしょうか?戦場で気がふれても仕方ないような状況に置かれ、日本に帰れば焼け野原で家族は死んでいる。やっと平穏な生活を掴んだと思ったら、妻は乳飲み子を残し死んでしまった。その度に彼は悲しみ落胆したのではなかったか?ほとんど世話をしてやれなかったと言え、再婚もせず息子と二人の生活を守った父は、息子と距離を置くことで、息子に去られた時の悲しみをやわらげようとし、息子と同じ孤独を味わうことが、父なりの不器用な愛情の表し方ではなかったかと思います。
妻英子は完璧な主婦なのに、洋服を異常に買い漁ることが欠点です。結婚前、自分の給料はほとんど服につぎ込むという彼女が、「服って自分を補うものだと思うんです。」と滝谷に語ります。自分の中の自信のなさを、服を買うことで落ち着かせていたのでしょうか?何年も付き合った恋人をふって知り合ったばかりの滝谷と結婚したのは、彼女は洋服依存症があるので、経済的豊かさと、15歳年上の夫の寛容さを期待したのかと思っていましたが 彼女が死んでから偶然滝谷が出会う、元恋人を見て違うと思いました。
「あいつ死んだんですってね。あいつは大変だったでしょう。」と言う元彼に滝谷は、「そんなことはなかった。あいつと呼ぶのは止めてもらいたい」と言います。元彼は滝谷の後ろから「あんたはつまらない人だ。あんたの書くイラストみたいだ。」と罵声を浴びせます。英子は滝谷のつまらなさに賭けたのかと、その時私はハッとしました。私はつまらない男性が好きです。つまらないと言われる人は、真面目で誠実な人が多いです。そして元彼のような無礼な物言いもしない。彼女が期待したのは、自分の中の不安感を、この人なら払拭してくれると言うことだったのかと思いました。「彼女も深く滝谷を愛していた」というナレーションが物悲しいです。
滝谷は妻の死を受け入れるため、妻と体のサイズが同じ女性(りえ二役)を会社に雇い、膨大な妻の服を制服代わりに着ることを入社条件にします。その膨大な高価な服の海の中、女性は何故か泣いてしまいます。この涙がなんとなく理解出来ます。高価な洋服を買っても買っても満足出来ず、若くして亡くなってしまった持ち主の哀しさを、買ってくれた夫の愛に応えることの出来なかった無念さを、女性は感じてしまったのでしょう。
ラストは英子との日々が、滝谷にとって人生のドアを大きく広げてくれる出来事だったと感じさせます。以前に戻るのではなく、新たな一歩を踏み出そうとする彼に、背中を押してあげたい気分でした。
観る人を選ぶ作品かと思いますので、是非どうぞとは言えませんが、私は好きな作品です。想像力ではなく感受性で観る作品でしょうか?音楽は坂本龍一。耳障りは良かったですが、私には可もなく不可もなくでした。孤独と喪失と言うのは、古今東西よく映画の題材になりますが、こんな描き方も出来るのですね。人間にとって、この二つと向かい合うのは永遠のテーマなのだと、改めて思いました。
2005年02月18日(金) |
「舞台よりすてきな生活」 |
原題は「How To Kill Your Neighbor's Dog」という物騒なタイトルですが、シニカルでユーモアたっぷりのセリフの応酬が楽しく、そしてちょっぴりほろりとさせる佳作です。監督はこれが初めてのマイケル・カレスニコですが、製作総指揮はロバート・レッドフォードです。
ロスに住む名の知れたイギリス人劇作家ピーター(ケネス・ブラナー)は、新作を執筆中ですがスランプ気味です。そこへ結婚10年目の妻メアリー(ロビン・ライト・ペン)が、子供が欲しいと言い出します。子供嫌いの彼は同居中の義母の介護を持ち出し、断念さすのにやっきの中、隣の犬は夜中吠えてピーターのストレスは全開。そんな時お隣に、夫と別居中の母子が越してきます。その子エイミーは足が少し不自由でした。子供好きのメアリーは、早速エイミーを招待しますが、ピーターは書斎に立てこもります。しかし新作での子供の描き方がなっていないと指摘され、密かにエイミーを観察していると、彼女に気づかれてしまいます。ままごとのお供をさせられた彼は、自由なエイミーの発想に触発されたのがきっかけで、交流が始まります。二人には年齢を超えた、奇妙な友情が芽生えるのですが・・・
ケネス・ブラナーがこれぞ英国人というような、ああいえばこういうという感じの、皮肉と毒が少々の口の減らない人で、始終笑わせてくれます。大人なんだか子供なんだかわからない人ですが、痴呆気味の義母と同居したり、自分の名を語るストーカー男と親密になるなど、口ほどではない善人ぶりが伺えます。事実エイミーに対しての最初の会話も、煙草はよくないと先生から聞いたという彼女に、「マリファナ吸っただろうと聞いてみろ」と応じます。まるで大人に対してと同じ皮肉たっぷりな答え方です。私はこの辺で、変に子供扱いしないことで、返って純粋な彼の心を感じました。相手が子供であれ痴呆気味の老人であれ、仕事相手であれ、いつも同じ態度で接する彼に、見る見るうちに魅了される自分を感じます。
対する妻のペンが、聡明さと明るさで対抗し、やっぱりアメリカ人だなぁと感じさせます。自分には子供のように振舞う夫に手を焼きながらも、その夫操縦法には感心します。子供相手のダンス教師を続けさせてくれたり、自分の母への心配りなど、しっかりした夫への信頼感があるからと感じました。演じるペンは、ご存知ショーン・ペンの妻で、実力がありながら素行の悪さばかり話題になる彼を、見事オスカーをとるまで支えた糟糠の妻です。ショーンはブラナーほど知的そうじゃないですが、私生活もちょっとかいま見た気分です。
痴呆の老人、不妊、家庭不和、ストーカー、そして身体障害と、自分の周り=隣人を見渡すと、ああそういえばと身近にある問題が、ユーモアに包まれながらさりげなく描かれています。その中で唯一さりげなくではないのが、エイミーを通じて描く身体障害です。エイミーは障害と言っても少し足をひきづるだけです。にもかかわらず母親は、少し神経質すぎるほど彼女を外とかかわらせません。そのため友人も出来ず、自由な愛情を示してくれるピーター夫婦と、どんどん親密になる娘に寂しさを感じ、彼らから引き離そうとします。
エイミーの可能性を引き出そうとするピーターとメアリーに、娘を人前に出して笑いものにする気かと激怒する母親。「エイミーを恥ずかしいと思っているんだろう!」と言うピーター。これは言いすぎだろうと思う私。「子供がいない人に何がわかるの!典型的な不妊夫婦ね。」と切り返す母親。あんたも言いすぎです、でも気持ちはわかると肯く私。母親は自分が社会に持っている概念を、娘に当てはめて考えているわけで、ピーターが確信をついてはいます。しかし人からは些細なことでも、それが自分の子の身の上に起これば、世をはかなむのが親と言うものです。
「ブラックジャックによろしく」を読んでいる時、障害児を育てる父親のセリフで「この子が生まれて本当に良かったと思っている。でもこの子に障害がなければと思わない日はない。」という言葉が出てきて、不意をつかれた私は泣いてしまったことがあります。この気持ちは、エイミーの母とて同じではないでしょうか?いつか子育てには終わりがきます。まだ10歳のエイミーに、私が守らねばとの母親の盲目的な愛は、良い悪いではなく私にはしごく当然に思えます。メアリーの「子供の前で母親のことを悪く言うなんて!」と夫をなじる姿が、私の思いを肯定しているように感じました。
ピーターとエイミーが別れを惜しみ抱き合う姿に、私はホロホロとまた涙。決して擬似親子ではなく、あくまで友情(愛情)に感じたのが心地よかったです。ラストメアリー御懐妊を思わすショットが嬉しいです。でも他人の子と自分の子は違うのよ。その時エイミーの母の気持ちもわかるでしょう。大事件も起こらず、日々の日常の1コマ1コマを丁寧に描いているだけなのに、楽しくほっこり観る事が出来ました。ビデオでも良いので、是非観ていただきたいです。
2005年02月17日(木) |
「呪怨」(地上波放送) |
いやいやいや、良かったです。テレビ放送のCMあり、家族で観るなど掟破りで観ましたので、怖さは弱まりましたがそれでも中々の出来でした。これを観たサム・ライミが、清水監督に惚れこんだのもわかります。出来は日本版が上ですが、見比べると、ハリウッド版も健闘しているのが良くわかります。
筋は噂どおり、ハリウッド版と同じです。ただ全く同じと言うわけじゃなく、神経に触る怖がらせ方の枝葉が、日本版の方が陰気で湿った感じがします。この手の作品では、大げさな仕掛けより枝葉が大事と思われ、妙に出演者に哀愁や好感を持ってしまったハリウッド版に比べ、終始思わせぶりな、何か起こるぞのムードが途切れません。効果音もこちらの方が盛り上げていました。
話の筋は上手くフラッシュバックを使って説明していた、ハリウッド版の方がわかりやすかったと思います。日本版は怨念に憑依された夫の、ぶつぶつ語るセリフが伽耶子と俊雄の怨念の始まりとは、何も知らずに観る人は、見逃してしまうかも知れません。その他時空が入り乱れるので、少しややこしいかも。
しかし伽耶子呪怨の理由は、ハリウッド版のように先達のホラークィーンの顔に泥を塗るような代物ではなく、似てはいますが明確な証拠も出てこず、塗れ衣とも考えられます。ただ社会から受けたバッシングにより恨みを抱く「リング」貞子の無差別攻撃に比べ、こちらはやはり逆恨み感満載で、好きにはなれませんが。
ハリウッド版にない、退職刑事と娘のパートがしみじみきました。女子高生ゾンビはお笑いですが、どこかで息を抜くのも必要なので、そういう気で入れたのかも。俊雄役の男の子は小さかったんですね〜。こんな役を2回も引き受けた根性は偉いですが、親御さんはどうしてやらせたんでしょう?子役の世界も厳しそうですから、そんなこともふと思いました。
うちの近所でも、その家に住むと病気になったり夜逃げしたり、離婚したりで良いことのないと言われている家があります。家を借りたり買ったりする時は、不動産屋だけでなく、御近所の評判も聞かねばと実感しました。ここまではないでしょうが、家に取り付く怨念と言う、現実として感じ易い題材を上手く使ったホラーでした。何でもビデオOV版が一番怖いそう。これは誰も家にいない時みよっと。
2005年02月14日(月) |
「THE JUON/呪怨 」 |
やっぱダメ。全然怖くない・・・。全米でその週初登場の作品でNO.1となったこの作品を、私の愛する綺麗な劇場で従業員さんも親切なのに、下駄履き(そんな人はおらんが)でも敷居の高くない、布施ラインシネマで夕食の買出しに行く前に、ささっと観てきました。本当は前々からこの日は、友人と「パッチギ!」を観る予定でしたが、友人が風邪でダウンで順延。申しわけながる友人ですが、私は全然大丈夫。「パッチギ!」の順延は残念ですが、私には観たい作品がてんこ盛りにあります。「JUON」が「全然元作と同じ!リメイクの意味がわからん!」と聞き、しめしめとこれにしました。だって日本版観てないもん。
いや正確には観たかったのですが、ミニシアター公開で行きそびれたのです。私はホラー大好きなのですが、神経が鈍感なのか、ほとんどの作品は怖いと思いません。去年は「悪魔のいけにえ」のリメイク「テキサス・チェーンソー」が出来が良いと聞き、わざわざ元作をビデオで復習し臨みました。これは良い出来で、元作の生理的嫌悪が若干弱まった分、ヒロインが現代的で強くなり、これはこれで面白かったなと満足しました。しかし「テキサス〜」はだいぶ怖かったらしく、余裕をぶっこいていた女性は私くらいで(だいたい女一人客は私だけだった)、可愛いお嬢さん方は、「怖かった!めっちゃ怖かった!」と口々に男連れでもないのに仰っていたので、本当に怖かったんでしょう。夢よ再びだったのですが・・・。
東京に交換留学生として来たカレン(サラ・ミッシェル・ゲラー)とダグ。カレンは福祉を学んでおり、授業の一つとしてアメリカ人家庭の介護に向かう。古い日本式の家の中には、痴呆の進んだように見える老女がいるだけで、息子夫婦はいなかった。荒れ果てた家を片付けるカレンは、2回の部屋のにある押入れに、閉じ込められている男の子を救い出します。不自然な老女と少年。派遣先の上司に連絡を取り、不気味な家で彼を待つカレンに、恐ろしいことが襲います。
この荒筋からダーーーーっと、たたみ掛ける恐怖の連続なのですが、白塗りの伽耶子や俊男が出てこようが、あごなし女が出てこようが、ヌッといきなり足をつかまれようが、全然怖くなりません。でもこれは私が鈍感なだけかも。ストーリーは、過去のことをフラッシュバックして、何故この怨念が取り付くのか、丁寧にわかり易く説明してくれます。この家の怨念に確信を持つ刑事が、あんたそれ退職してからやりなさいという行動に出たりするのがちょっと疑問でしたが、元作では退職刑事の役だったとか。腑に落ちないのはこれくらいでした。
生活レベルの高そうなホワイトカラーの白人が、あんな古い家借りんやろ、と言うツッコミは、そうなると話が成立しないので、きっと郷に入れば郷に従えで、日本に馴染もうとしたのでしょう。うん、そうしとこう。それを裏付けるように、登場する外人俳優は、みな日本語を一生懸命喋るので好感が持てます。(でもホラーで好感を持っても・・・)
脚本・監督は元作の清水崇なので、古い陰気な、何かいわくありげな家の様子が上手く、町並みや人々もオリエンタルにソイソース(醤油)をぽたぽた数滴落として、外人好みのジャパニーズの出来上がりではなく、下町のまだああいう家が残っている日本がきちんと描けていました。全米でヒットしたのは良いことだと思います。
怨念に関しては、親の巻き添えを食った俊雄には非情に同情できるものがありますが、伽耶子に関しては自業自得で、死んでも人様に迷惑をかけるなど、きっと生きている時もはた迷惑で周囲を困らせただろうと思われ、死んでからくらい反省して、息子の成仏のため生きろ(?)と思ったりします。ホラーは怖がらせる方に魅力がないと面白みが半減するので、その辺も私には×でした。だから松島奈々子主演の「リング」も思い切り×!あれは原作を読んでいますが、稀代のホラークイーンの貞子をあんな目ん玉のおばけにしてからに!と腹立たしかったので、ハリウッド版は観ていません。「リング」の映像化は、高橋克則主演作の10年くらい前の2時間ドラマが、なかなか原作のテイストを上手く吸い上げて秀作です。よろしければどうぞ。
でもエンディングで私は驚愕するのです。えぇぇぇぇ!あれってビル・プルマンやったん!とても重要な役で結構たくさん出演している彼がわからなかったのです。ショック!プルマンと言えば、もう一人のビル、ビル・パクストンとともに、大作話題作に多数出演し、演技巧者でギャラも高額なはずなにの(たぶん)、なかなか顔を覚えてもらえない「可哀相なビル」として、某雑誌でコラムに取り上げられた人です。ビルパクに関しては自信なくても、「キャスパー」大好きの私が、プルマンがわからんわけはないよ、とそのコラムを読んだ時思ったもんですが、恐るべしビル・プルマン(意味が違います)。何でなんや?「アンビリーバボー」や鶴瓶の番組の再現フィルムでも、「三週間前は犯人やったのに、今日はこの人奇跡の生還やねんな。」と覚えている私なのですが。
ちなみに私見の女優版では「可哀相なメアリー」となり、メアリー・スチュアート・マスターソンとメアリー・ルイーズ・パーカーの、「フライド・グリーン・トマト」コンビではないかと思われます。私は二人とも好きなので、顔も出演作も出てきますが、一般的には「可哀相なビル」に属する女優さんではないでしょうか?マスターソンは「妹の恋人」、パーカーは「最高の恋人」の彼女たちが好きです。「フライド〜」も大好きですが、みなさんキャシー・ベイツとジェシカ・タンディの顔以外、頭に浮かびます?
う〜ん。昨日観てきたこの作品、宮部みゆきの原作も読んでいます。原作の雰囲気もよく出ていたし、ピックアップしてクローズアップした箇所も、好みのシーンがありました。とても長尺の原作で、ストーリーも複雑に絡み、映画化には困難なところを、よくまとめてもいました。でもちょっとノリ遅れたというか、素直に面白かったと言えません。
東京荒川区の高級高層マンションで飛び降りがありました。そこの住人と思われる男性の部屋に入ってみると、3人の死体が。殺人でした。都会のマンション暮らしゆえか、隣近所はこの一家の家族構成すら知りません。やがてこの一家は、持ち主とは別の赤の他人達が暮らしていたと判明します。その頃この事件の重要参考人と思われる石田直澄が、簡易宿泊所である「片倉ハウス」の前に立っていました。
元々は、wowowの中の単発ドラマとして放送されたものが劇場公開されたそうです。出演者は総勢有名無名新人合わせて107人。顔の売れた俳優さんもワンポイントで起用したりして贅沢です。よく見かける顔が多いので、誰がどの役なのか覚えやすく、こんがらがることはありませんでした。中高生役の役者さんたちの素人くささに好感が持て、さすが昔から若いフレッシュな子を見出すのが上手い大林宣彦監督と言う感じです。
ドキュメンタリータッチで、多くの登場人物が取材を受けての受け答えと、その回想シーンで構成されていて、これは上手いです。素人さんがカメラ目線で話したり、芝居っけたっぷりに演じるのですが、全然違和感なかったのは、演出の力でしょう。役者さんには素の感じが出るよう、多くがノーメークで臨んだそうです。南田洋子などしわしわでしみだらけなのに、凛とした老婦人ぶりが美しかったです。原作より大きくなった管理人役岸部一徳が、狂言回しのように要所要所出てきますが、出すぎず引きすぎず心得た演技で良かったです。他には根岸季衣のパートが心に残りました。
しかし良くまとめているものの、私には演出で引っかかるところがチラホラありました。私は赤座美代子が子供の頃から大好きで、この作品でも塾講師の役で登場シーンも多く楽しみにしていました。素顔の彼女は今でも大変美しく、50過ぎくらいでこれは立派だなと思っていましたが、調べてみたら何と去年還暦!彼女には何も文句はないのですが、やたら下着姿が多いのです。確かに今も充分に美しい彼女ですが、元教師で現塾講師と言う堅い仕事の熟年女性の、意味ない下着姿を見せることに、私には違和感がありました。電話や家の構造、塾の教室など不必要にレトロで、それはストーリーに絡む物でもなく、こちらも違和感がありました。
風吹ジュンも私は好きですが、実年齢はやはり50過ぎなのに、一周りくらい若い役を何故当てたのか疑問。ドラマで高橋克典をとりこにする役も納得だった彼女の、毒々しい若作りはいただけませんでした。
でも一番疑問だったのは、一番重要に思われる石田役の勝野洋。これも彼が悪いと言うわけでなく、石田の造詣が雑なのです。原作は5年ほど前読んだので、だいぶ忘れていますが、彼の部分は映画独自のものもあったと感じました。例え田舎であっても、昭和の前半に婿養子をもらう老舗の饅頭屋が、一人息子である石田に、何も財産を残せなかったのは不自然です。子供達への哀しい見栄でもあった、家を買う理由にも絡んでくるわけで、饅頭屋を嫌って都会の出てきた理由とともに、不自然さがあります。そしてある約束のため彼は重要参考人として指名手配されるのですが、描かれる内容だけでは、ただの成り行きにしか感じられず、イマイチ理解出来ません。この辺が越えられなかったので、彼に感情移入が出来ませんでした。
原作は細部については忘れているもののなかなか面白く、そして土地家屋について勉強にもなった作品でした。石田は私が一番理解も共感も読みながら感じていた記憶があります。最後の方に監督が映画の中に出てくるのが蛇足。もっと気分を害するのは、エンドロールに流れてくる、「殺人事件が結ぶ絆〜♪」という歌詞の、信じられない悪趣味の歌。結局上手くまとまっているなぁだけで、大林監督の演出が私には合わなかったということです。この作品は段々解きほぐす謎が本当に面白いので、筋のわかっている緊張感のなさも悪かったようです。原作を知らない方は、また違った観方もあると思いますので、読むのは観てからをお薦めします。
昨今純愛ブームの中、「セカチュー」も「今会い」も観ていませんが、この作品は若い人と老人と二つのパートで愛を謳いあげると聞き、是非観ようと思っていました。注目はもちろん老人パート。ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーが演じるとあっては、早く観なくっちゃ。ということで、昨日観て来ました。今回はネタバレです。つーか、チラシや予告編を観ただけでも、勘の良い方はわかると思いますし、私も当りをつけて観ました。ネタバレしてからが真骨頂の作品ですので、読んでも可かと。でも責任は持てませんので、その節はどうか御容赦を。
とある老人用の療養施設、虚ろな表情の老婦人にデュークと名乗る老人が、毎日ある若い男女の物語を読み聞かせています。それは1940年代のアメリカの南部のある町で起こったお話。ひと夏を過ごしにやってきた富豪の一人娘アリーは、地元の材木場で働く青年・ノアと恋に落ちます。毎日の逢瀬が楽しくて仕方ない二人。しかし夏の終わりを待って、生きる場所の違う二人は、アリーの両親によって引き裂かれます。二人の行く末はどうなるのか?
若い二人のパートは、まだ17〜20歳前後なので、やたらキャーキャー騒ぐしキスしまくるしで、少々観ていて疲れますが、素直に若さっていいなぁとも思います。ノアを演じるライアン・ゴズリングは普通の好青年の誠実さを好演していました。のちの展開で、この普通さが生きてきます。アリーのレイチェル・マクアダムスは可愛いのですが、少々キャピキャピし過ぎでちょっと聡明さが足りない気がします。でも私は若い娘さんは憂いがあるより元気いっぱいが好きなので、許容範囲でした。
アリーのお母さんにジョアン・アレン。ノアのことを「彼は好青年よ。でもクズだわ。彼と結婚して薄汚い子をたくさん連れて歩くの?」というセリフが出てきて、ハイソ女性の裏側の本音を演じさせるのに、アレンを使うとはぜいたくだなぁと思っていたら、お母さんにもアリーと同じ経験があったのですね。現在の婚約者とノアの間で悩むアリーに、今も肉体労働をするかつての恋人を見せ、いかに自分が今幸せか、夫を愛しているか、娘に涙ながら語る彼女は、それが本心でないのが丸わかりです。ノアをなじられた時、「ママなんか恋したことないでしょう!パパとじゃれついているのを見たことがない!」と激怒したアリーですが、きっとその言葉を後悔したでしょうね。お母さんも安定した生活の中で、過去のほろ苦い恋との葛藤で切なくなったこともあったでしょう。この場面で今までの行動が全て合点がいくアリーの母を、アレンはさすがの深みを持って演じていました。
この辺で老婦人は現在痴呆症のアリー、デュークはノアで、二人は結ばれ子供達も立派に大人になったことがわかります。誰もわからなくなったアリーに、医者や子供達に無駄だと言われようと、昔の自分たちのことを語ることで、奇跡を呼ぼうするノア。子供達に家に帰るよう言われ、「お母さんがお父さんの家だ。」と静かにきっぱりと言い切るノア。そうなのか、妻とは夫の心の家なのか。「レイ」でも、幾人愛人がいようと妻のデラ・リーだけは別格でした。愛人に「私と過ごす時間の方が多いじゃない、奥さんと別れて。」と責められても、はねつけたレイ。家庭なら又子供を生んで作ればいい。家庭ではなく、妻がレイにとっての帰るべき「家」だったのですね。
ほんの一瞬ノアの気持ちが通じて夫を認識するアリー。「ダーリン」と呼び泣きながら抱き合う二人。そしてまたわからなくなる。ここから涙流しまくりの始まりです。連れ合いが記憶を失くしてしまうほど、夫婦にとって残酷な事はありません。何十年と二人で築きあった苦しかったこと楽しかったこと、いっぱいの思い出を共有出来るのは、妻や夫しかいません。決して新しい相手、子供では満たされるものではありません。たくさんの人が、妻に過去を思い出して欲しいと願うノアの心に、共感出来ると思います。
しかし夫婦すべてがお互いそんな存在になれるかというと、これはすごく難しいです。結婚すると言うのは、私は縁だと思っています。この物語のように、切ても切ってもお互いが引き合うこともあるし、何の障害がなくても結ばれない二人もいます。そんな結婚を維持するのは、式までこぎつけるよりもっと努力もエネルギーも要ります。それは片一方だけではダメですし。何年か前、近所の78歳の方が亡くなりお通夜に出向いた私に、娘さんは「あんなに母に苦労をかけた父が、すっと逝って初めて妻孝行しました。」と仰ったのに対し、奥様は「手のかからない人で、いい人でした。後5年は生きてくれると思っていたのに・・・」とお泣きになり、夫婦には他人はおろか、子供でもうかがい知れない歴史があるのだと思いました。そのことを、ノア夫婦の子供達やアリーのお母さんを見て思い出しました。
冒頭ノアの「私は何の自慢も取り得もない人間だが、一人の人を生涯愛したということだけは私の誇りだ。」と言うようなナレーションが入るのですが、これがこの物語の全てではないかと思います。普通の平凡な人が誠実に誰かを愛し晩年まで生きる、「真心」を描きたかったのだと感じました。ラストシーンは、仲良く暮した老夫婦は、きっと皆願うであろう出来事で終わります。
末期の痴呆症にしては、ローランズがちとエレガントで綺麗過ぎる気もしますが、あんなに素敵なガーナーに生涯愛される役ですもの、これは映画なんだから固いことは抜きということで。監督はローランズの息子のニック・カサベテス。息子から見て、彼の両親(父はジョン・カサベテス)はきっと素晴らしい夫婦だったのでしょう。出来ればちょっと甘口で観て欲しい作品です。日頃は夫のことを口うるさいオッチャンやとを思っている私ですが、大事にしなくちゃと節に感じた作品です。私の夫はノアのようになってくれるかな?
ジェイミー・フォックス入魂の演技が大変話題の、レイ・チャールズの伝記です。動物園前シネフェスタは、お休みの日もすいていることが多いですが、この日お昼の回は、そこそこ満員でした。大阪市内で上映しているのは、ここと梅田のOS劇場だけなので、偶然エレベーターで乗り合わせた二組の御夫婦が、「何で映画館の階で停まれへんねんやろ?」と口々に仰るので、「6階で降りてエスカレーターで上に上がるんです。」と、聞かれてもないのに、ついつい言ってしまいました。かように普段は映画とは縁のない方も、レイ・チャールズの伝記なので来られた方も多いみたいで、年齢層はやや高めでした。
幼い時弟を亡くした心の傷と緑内障が重なって、8歳のレイは盲目になってしまいます。貧しいシングルマザーの母に、厳しくも大切に育てられた彼は、盲学校を卒業すると、シアトルへ音楽で身を立てるため旅立ちます。その天才的な才能を開花させた彼は、アトランティスレコードの重役の目に留まり、レコードデビューを果たします。続々とヒットを飛ばすレイ。ゴスペルシンガーでもあったデラ・リーと結婚し子供にも恵まれた彼は、表向きには順風満帆でしたが、バンドのコーラスガールを次から次に愛人にし、結婚前からのヘロインを手放せないでいました。
レイ・チャールズの人生の前半を、きちんと光と影の両方の部分を描いています。特に面白かったのが、レコードデビューしてからの戦略です。生きるため人受けが良いよう、ナット・キング・コールの二番煎じだった彼に、アトランティスの重役達は、ほんのちょっとのヒントを出します。それがきっかけで次々ヒット作を飛ばすレイ。まさに天才の名にふさわしく、溢れる才能は泉の如しですが、言うなれば彼はダイヤモンドの原石で、原石を磨く人=プロデューサーが編曲したり、ラジオ局を地道に周ったり、長い一つの曲をA面B面二つに分けると言うアイデアを出さなければ、たとえ優れた曲であっても、彼の曲を耳にすることは出来なかったかと思いました。そして即興で作った曲が大ヒットしたり、愛人に向けての恋心や痴話げんかが元になっていたりの、面白いエピソードも披露されます。
最初ローカルなバーから始まり、やがて全国を回るバンドの一員のなってまでは、彼を取り巻き甘い汁を吸ったり、浮いた扱いをしていたのが全て黒人だったのが、どんどんレイが実力をつけ黒人社会からはみ出す勢いになると、白人が手を差し伸べます。ビジネスとして成功が見込めれば、肌の色に関係なく条件提示する白人社会。根強い差別があった時代でも、お金になる才能には、平等であったのだなと思いました。 当時と言えば、今は黒人も混血や整形が進み、美形で端正な人が増えましが、昔風の整ってはいないけれど、暖かみのある顔立ちを感じさせる俳優を使っていたのが、当時の雰囲気を醸し出すのに一役かっていました。
影の部分ですが、レイ存命中に撮られた作品のためか、ぎりぎり見せられる限界まで見せましたと言う感じです。女性に溺れたりヘロインが手放せないのは、盲目の孤独やヒット曲を生み出し続けねばならないプレッシャーだと言うのは、手にとるようにわかり(他にも理由はあるのですが)、丁寧な演出でした。ただ人が出世して行くと、どうしても裏切ったり裏切られたり、人が信じられなくなって行く場面も多いと思うのです。レイが育ててもらったマイナーのアトランティスから、金銭的に有利な大手ABCにレコード会社を移籍するときの経緯も、あまりにあっさりしすぎ。長年マネージャーだったジェフが、切れ者のジョーに自分の立場をとって代わられて不安になり、使い込みをしそれが発覚するや、ここもあっさりクビに。盲目だけでない、成功した者につきものの孤独感も、もう少し掘り下げて欲しかったかと思いました。
しかし、私がそう思うと必ずフラッシュバックで、幼いレイと母アレサが出てきます。母の厳しく哀しく寂しい顔は、レイの背負ったもの全てを表しているようで、私の胸を締め付けます。盲目であっても黒人であっても、希望を忘れず必ず貧しさから抜け出すよう、幼いレイを叱咤激励した母。ヤクと縁の切れないレイに、「私よりも子供よりも、ヤクよりも他の女と寝るよりも、あなたには大切なものがあるでしょう?ヤクのためにそれを捨ててもいいの?」と詰め寄る妻デラ・リーが、母アレサに重なりました。夫には自分より大切な物があると認めるのは、妻としてとても辛いことです。平凡な人にとっては、家庭であればこそ唯一無二の存在ですが、レイのように大衆に愛された人は、社会でも唯一無二の存在です。彼に音楽家としての人生をまっとうさせようとした妻の心は、盲目のレイが転んで泣き叫んでも、彼が自力で起きるまで、自分も身を切られるような辛さで耐えた母と同じです。後 年再起したレイの傍らで、「お義母さんに(あなたを)見て欲しかった」とつぶやくデラ・リーに、レイを生涯で一番愛した二人の女性の、時間を越えた絆を見たようで、胸が熱くなりました。
ゴキゲンなレイ・チャールズの曲が最後までノリよく流れ、思わずリズムを何度か刻みました。R&Bとは、黒人の持って生まれた素養と、アメリカの文化がはぐくんだ音楽で、決してアフリカでは生れなかったろうなぁと、演奏やダンスする黒人の人たちを見て思いました。評判のジェイミー・フォックスは、確かにすごい!曲は吹替えでレイ本人ですが、言われなければ彼が歌っているようで、全然違和感ないです。歩き方首の振り方なども、盲目の人のそれで、当分ハリウッドを席巻する存在になると感じました。オスカーの作品賞としては少々物足らないでもないですが、主演男優賞は、文句なくジェイミーにあげたい気分です。
キャー、素敵すてき!2/1の映画の日に観て来ました。実は「レイクサイド・マーダーケース」を観る予定だったのが、前日末っ子が熱を出し、もし学校から呼び出されてもすぐ迎えに行けるよう、近所のラインシネマで上映中のこちらに変更しました。こうやって心を砕いて育てても、子供っちゅうのは大人になると、一人で大きくなったような顔するのだ。
などど言うことはさて置き。ご存知アンドリュー・ロイド・ウェーバー作曲の不朽のミュージカル作品の映画化です。華やかに賑わうパリ・オペラ座では、奇怪な事件が頻繁に起こっていました。それはオペラ座に棲みつくファントムが、幼い時から歌を教えてきた、コーラスガールのクリスティーヌをプリマにしたいためでした。期待に応えたクリスティーヌは、主演のオペラで大成功を収めます。しかし彼女は、幼馴染のラウルと恋仲に。怒ったファントムは彼女を取り戻そうと、やがて殺人まで手を染めます。
冒頭廃墟と化したオペラ座でオークションが開かれます。当時の惨劇を知るシャンデリアが紹介されるや、モノクロ画面が鮮やかにカラーになり、栄華を極めたオペラ座の全容が映し出されるや、私の心も一気に華やいで映画の中に。監督のジョエル・シューマカーは、ジャンルは何でもありで作る人で、作品の出来も開けてみないとわからないと言う、まさに宝くじ感覚の監督です。しかしこのシーンでその不安も払拭されました。
主演のファントムにジェラルド・バトラー、クリスティーヌにエミー・ロッサム、ラウルにパトリック・ウィルソンと、いささか知名度と華に欠けるキャストだと危惧していましたが、もう全然そんなことはありません!プリマのカルロッタ役ミニー・ドライヴァー以外は、キャスト全てが吹替えなしで歌っているそうで、その点重視のキャスティングと思われますが、大作としては大きな賭けだったでしょうが、知名度の低さが返って新鮮に感じ、若々しさが格調は高いのに、良い意味で重厚感を薄くさせてくれ、私のように舞台やミュージカルに疎い者にとっつき易くさせていました。
バトラーが艶っぽくてセクシーで、もぉ〜。(デレデレ)ただファントムの仮面は顔1/3を覆うくらいで、取った時の絶望感が少し希薄だったように思います。確かに残酷な容貌なのですが、クリスティーヌならずとも、そんなに越えにくい壁には感じませんでした。水もしたたる男ぶりが、返って仇になったかも。酷評されている彼の歌唱力ですが、私は素直に上手だったと思います。
ロッサムは撮影当時17才だったそうで、美貌なら彼女以上の人がいたでしょうが、歌唱力と類稀な清らかさで期待に応え、彼女以外クリスティーヌはいないと思わせます。ラブシーンも大人のファントムとは官能的に、同世代のラウルとはみずみずしくと、演じわけもちゃんと出来ていました。
ウィルソンはこの作品で初めて名前も顔も知りました。最初はもうちょっとハンサムでも良いかなぁと、印象に薄かったのですが、クリスティーヌを愛する気持ちが清々しく伝わり、好感を持ちました。バトラーと彼女をめぐって剣で戦うのですが、昔の殿方って女のために命を賭けるのね〜素敵だわ〜と、私などうっとりしてしまいました。
主役と同じくらい気に入ったのがミニー・ドライヴァーです。プリマってこうよねーと言う感じの、華やかですがわがままで意地悪。劇中のオペラシーンでのコミカルなコントのような様子に、「観客はこういうのを好むのだ。」と支配人が語るのですが、まさに観客が好む俗っぽさを体現していたのが彼女。庶民的でチャーミングですが美人ではないドライヴァーが、当代一と謳われるプリマを演じて、ユーモラスで貫禄たっぷりでした。
豪華絢爛、美術に歌に衣装に演出に酔いしいれ、2時間20分堪能出来ます。三人三様の葛藤も少々底が浅いけど、それまで深かったら、胃にもたれて食傷気味になってしまいます。舞台も観に行きたいのですが、如何せんお金が問題。一つ観に行ったら、その月は映画がなしになってしまいます。ミュージカルや舞台に詳しい方は、少々物足らないかもしれませんが、映画と言う大衆目線にあった作品だと思いました。日を開けて、もう一度観たいと思います。
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