一橋的雑記所
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2006年03月06日(月) |
某企画用に書こうとしてやはり規格外(え)。※ホントは070701. |
己的お姉さまへ、こそりと感謝(平伏)。
白くて細い指。 目の高さにあるそれを、そっとこの手に取る。 驚くでもなく振り向いた彼女の。 いつもと同じ、問うような微笑むような、優しい眼差し。
海を見に行く。 ― 花火 ―
じわじわと背中を押す蝉の声が暑苦しい。 対照的に、隣を歩く彼女の横顔は見ているだけで心がしんとするように、静かだった。
――今から出られる? 迎えに行くから。
思いつきで掛けた電話に出たのが彼女だったから、思いつきでそんな言葉を掛けたのだ。 少し待って下さい、とあの囁くような声がして暫くの保留音の後、時間を尋ねる言葉が返ってきたので、右手首の時計を見る。
――一時間もあれば着くかな。
分かりました、と応えた声が僅かに弾んでいるように聞こえたのは気のせいだったかもしれないけれど、自分の心が僅かに高揚していたのは、気のせいでは無かった。
緩やかに蛇行しながらやや上向きに傾斜している、民家の間を抜ける少しばかり狭い田舎道を走るのには便利だけれども、親から払い下げられたこの中古の軽では、暑い最中余り遠出はしたくない。 窓から斜めに差し込むキツイ陽射し相手に奮戦しているエアコンの、弱々しげな冷風を頬に浴びながらぼんやりとそんな事を思う。 彼女の家にこうして出掛けるのは何度目になるだろうか。 何度目であれ、隣なり後ろなりに誰かを同乗させたことがない事だけは確かだった。それだけいつも、思いつきの結果だったということだけなのだけれども。
民家の間をすり抜け、ほんの少し開けた場所まで出ると、なだらかな稜線を背景に、生い茂る竹や雑木に囲まれた彼女の住まいが見えてくる。 山門を左に眺めながらぐるりと後ろに回りこみ、田んぼに面した舗装されていない空地に車を入れる。今日は特に取り立てて何事の無いのだろう。他に彼女の家を訪ねる車が見当たらなかったので、遠慮なく木陰を占領するように駐車した。 エンジンを切りドアを開け放つと、想像していた程も外は暑くない。
水を打った飛び石を辿りながら彼女の家の玄関に辿り着き、インターフォンを押すのと、からりと引き戸が開くのとはほぼ同時だった。
「ごきげんよう、お姉さま」 「もしかして、見えてた?」
お行儀の良い挨拶に応える手間を省いて尋ねると、彼女は微笑んで頷いた。 家に居る時の常で、彼女は癖のある柔らかい髪をあっさりと結い上げた和服姿だった。
「暑いのに大変だね」
思わず呟くと、ほんの一瞬きょとんと目を見開いた後、彼女は、そうでもないんですよ、と応じる。 そういえば、夏に此処へ来たのはもしかしたら初めてかもしれない、と思いながら、彼女に促されて上がらせて貰う。
彼女の部屋は、古い母屋に建て増しされた比較的新しい二階屋の上にあって、その窓からは乗ってきた車が木陰で涼んでいる様が良く見えた。 出された冷えた麦茶を一息に飲み干して、窓辺に吊るされた風鈴の音を聴く。時折思い出したようにじわじわと鳴き出す蝉の声は、ほんの少し前、自室の窓から滲み込んできたものと同じ生き物の声とは思えないほど、広く聴こえた。
「広く、ですか?」
思った通りのことを口にすると、彼女が小首を傾げる。
「うん。うちの近所のは、なんていうか、硬い」
硬い、ですか。 彼女が再び鸚鵡返す。 広いと硬いは対義語じゃないわよ、と言い出しそうな友人の顔をふと思い出しながら頷いてみせる。それだけで彼女には十分だったようだ。ほんのりと何処か嬉しそうな顔になった。
「ところで、今日は何処へ行かれるのですか?」
グラスに残った氷を頬張った所へ飛んできた問いに、ああそうだった、と思い出す。
「迎えに来るとか言っといて、忘れるとこだった。花火、見に行かない?」 「花火、ですか?」 「そんなに大げさなヤツじゃないんだけど」
車なら小一時間、電車でならもう少し早く辿り着けるだろう海岸通りで毎年催される花火大会。夏休み前のこの時期なら、まだそんなに人出もないだろうな、なんて話を誰かがしていたのを不意に思い出したのだった。
「どなたかご一緒ですか?」 「ううん」
何で、と問い返しながら頭の中を過ぎったのは、かつて彼女や自分の友人たちと過ごしたあの場所のこと。不思議な事に、今の今まで他の誰かを誘おうだなんて思いつきもしていなかった。
「誰か誘いたい?」 「いえ、私は」
例えばあの可愛らしい日本人形のようなあの子とか、と続ける間もなく、彼女は首を横に振る。おや、と思ったけれども、彼女の少し俯いた顔には、特にこれと言って陰も無い。
「なら行こうか。少し早いけどこれ位の方が道も混まないだろうし」
ええ、と彼女は頷いて、支度の為に席を外した。 独り取り残された部屋の窓の外、ゆったりと風と雲と蝉の声が青い空を背景に流れていく。
そういえば高校生は期末テスト中だったっけと思い出したのは、涼しげな白地に淡い色の花が散った浴衣に着替えた彼女が助手席に乗り込んできた後だった。
「大丈夫だった?」
はい?と尋ねるような顔になってから思い当たったのだろう。軽く頷いて見せた彼女に、少なからず安心する。
「そういえば忘れていたけど、受験生なんだっけ」 「ええ」
でも、と彼女が続け掛けた気がして、巡らせかけたハンドルを止める。 けれども、彼女の横顔は動かない。
――まあ、いいか。
胸の中呟いて、車を出した。
夕暮れ時にはまだ早い時間、花火会場よりは少し遠い場所にある国道沿いの大型複合店舗の駐車場に車を止めて、歩き出す。昔はそれなりに賑わっていたのかもしれない海辺までの通りは、シャッターが降ろされたままの店が幾つも並んでいる。時折、思い出したように開いているのは、子ども向けの玩具や駄菓子を並べた店だったり、軒先に鉄板を出してイカを焼いたり、大きな氷を浮かべたケースに缶飲料を突っ込んだ露店だったり。 二人して黙々と歩く内に店々の間隔は段々と狭くなり、行きかう人の姿がちらほらと増え始めた頃、海沿いの通りに行き当たった。 仄かに海の音がその向こうから届いてくる、防波堤の壁が長く続く通りには、先程の商店街よりも余程賑やかに間断無く露店が立ち並んでいる。
「お腹空かない?」 「いえ、私は」
車を降りてから初めて交わした会話は直ぐに途切れる。けれども、別に落ちつかない訳でもない。 こうして二人逢うのも、並んで歩くのも随分と久し振りなのに、懐かしいよりも落ち着くような心地を感じていた。 彼女は、今は降ろしている柔らかな髪の向こうで綺麗な横顔を通り過ぎる露店の灯りに晒している。ともすれば無機質に思われがちな穏かな無表情の中にどんな感情が潜んでいるのかとか、何を思っているのだろうかとか、そんな事を自分の方から気にする必要は無いのだと、何処かで感じている。 それは、彼女も同じだとただ何となく思っていた。 だから、防波堤が途切れた辺りで不意に足を止めた彼女の眼差しが、酷く切実なものを込めて此方を振り仰いだ時は、内心、酷く驚いてしまった。
「……どうしたの?」
出来るだけ穏かに声を掛けた。 ゆっくりと歩く内に空は随分と深い色に染まっていて、露店の灯りを背景にした彼女の表情は読み辛い。けれども、何処か自分自身に戸惑っているような気配は確りと伝わって来る。
「何か、あった?」
誰と、とは問わなかったけれども、彼女の穏かな無表情が僅かに崩れる。 胸元で軽く組み合わされた指先が、淡い色の浴衣の前にあっても浮かび上がるほどに白い。その時初めて、迂闊にもその左の薬指に光るものに気づいた。その視線を辿るように彼女は胸元に眼差しを落とすと、そっとそれを隠すように掌を重ねた。 その時、遠くから何かを告げる声と、賑やかな音楽が風に乗って流れ始めてきた。
「花火、始まるね。行こう」
呟いて、彼女の顔は見ないで、その手を引き寄せる。 右掌に、彼女の指を飾るリングが冷たい。
少し開けた松林の公園の向こうには防砂の為の階段が長く広がり、何処から集まってきたのかと思うほどの人たちがあちらこちらに座り込んではまだ明るさを残している空や海を眺めている。そんな人たちの後姿を眺める格好で、公園に点在する動物の形の置き物の一つに、彼女を座らせた。
「ここからでも、花火は見えるからね」
行って、自分はその傍の地べたに座り込む。少しもホンモノらしくないパンダの置き物の上に座り込んだ彼女は、俯くようにしてこちらを見下ろしている。
「……それ、綺麗だね」
視線の先、膝の上に揃えられた白い指が迫り始めた闇の中、浮かび上がる。 シンプルなシルバーのリング。中ほどに、小さな紋様が掘り込まれてその中央、更に小さな白い石が埋め込まれている。 彼女は、今度は隠さなかった。
「良く、似合っている」 「お姉さま……」
私は、と続けかけた彼女の横顔に、唐突に鮮やかな光が弾けた。 少し遅れて、大きな音と歓声が上がる。
「ほら、始まった」
視線を空へと向ける。 彼女の戸惑いや躊躇いには気付かぬ素振りで、割合に間延びするような間隔でゆったりと続く打ち上げ花火を振り仰ぐ。 花のように星のように、仄暗い空を彩る花火たち。 時折、強い風が打ち上げの煙を巻き上げる。 両足を、芝生の上に投げ出して大きく背中を持たれかけさせる。斜めの視界の片隅で、同じように空を見上げている彼女の横顔が微かに震えているのを認めて、その膝の上にそっと手を伸ばす。 掌に再び感じる、冷たい感触。 どれだけの想いが、そこには籠められているのだろう。 戸惑う程の。 その戸惑いを、誰かに打ち明けずには居られない程の。 ただ、その重さを慰める言葉の持ち合わせが、この心には無い。 掌に緩く力を込めながら、そんな事ばかり、ぼんやりと考えていた。
一頻り続いた花火は、最後に空を一面染め上げる鮮やかな花の乱舞で幕を閉じた。 興奮冷めやらぬ様子でざわつく人たちを、薄い火薬の匂いと煙が取り巻いている。 掌にはもうあの冷たい感触は無くて、ずっと繋いでいた温もりの中に溶け込んでいる。
「……有難うございました」 「ん? 何が」
見上げた彼女の横顔はもう震えてはおらず、いつものように穏かに微笑んでいた。
「とても、気が楽になりました」 「そう」
なら良かった、とその手を解こうとした時、思いがけず強い力で握り返される。
「本当は、少し、怖かったんです」
今は少しもそんな風に見えない真っ直ぐな眼差しが眩しくて、思わず目を細めた。 大丈夫、なんて、そんな言葉は、言い出せそうもなかった。 どうしたって今の自分が踏み出せない一歩を踏み出そうとしている彼女を前に。 握り締めた掌に覚えた確かな冷たさに彼女以上の重さを感じてしまった自分に。 一体何が言えるだろう。 ほろ苦い笑みを闇に紛れさせて、その手を改めて握り返す。 有難うございました、ともう一度呟いて、彼女は再び空を振り仰ぐ。 今はもう見えない空の花を思わせて、夜闇に彼女の後ろ姿が浮かび上がる。
ざわつく雑踏の中、はぐれないように繋ぐ手は、さっきとは逆にした。 空いたもう一方の自分の掌を見下ろしながら、その先は何処へ続くのかと、そんな事ばかりを思っていた気がする。
帰り道は思った以上に混み合っていて、途中、彼女の自宅へ電話を入れるためにコンビニで小休止する程だった。
「今からこれじゃ、夏休みになったらどうなるんだか……」
少しうんざりした気分でぼやいたら、彼女は可笑しそうに笑った。
「今度は、電車で来ませんか? 皆にも声を掛けて」 「全員、浴衣とかで?」 「ええ」 「それはいいなあ。あ、私は浴衣はパス」 「どうして」 「帯ってのがどうにも性に合わない」 「慣れれば大した事ないですよ」 「面倒じゃない」
緩くエアコンを聞かせた狭い車の中、酷く饒舌になっていく自分たちが可笑しくて、他愛の無い言葉を交わしあいながら、何度も何度も笑った。
じわじわと背中を押し潰すように滲み込んでくる都会の湿気。 文字通り、うだるような暑さが、街中を行くこの身を包んでいる。 異常気象も良い所な今この時期に、とんでもない場所に呼び出してくれたものだと、何度目かの恨み言を呟いてみる。
「遅いわね」 「暑かったのよ」 「何その言い訳。その暑い中、20分近くも待たされた私の立場は?」 「ならもっと涼しい場所にしたら良かったんじゃない」
勢い良く歩き出した真っ直ぐな背中を追い掛けながら、掌で額の汗を拭う。それに気付いたのか、振り返りざま、ハンカチを投げつけてくる。
「失礼な、ハンカチくらい持っているわよ」 「なら出しなさいよ」
ぶつぶつ言いながらも有難く使わせて貰う。薄いガーゼ生地の中に涼しげな金魚の模様。
「へえ、蓉子でもこんなハンカチ使うんだね」 「何よその、私でもっていうのは」
返そうとすると、持ってなさいと押し返された。これは後日洗って返せということかと、舌を出す。
「で、何処へ行くの。この暑い盛りに呼び出して」 「お買い物」 「何の?」 「お祝い」 「誰の?」
言った瞬間、立ち止まったその背中に危うく追突しそうになる。
「あなたね」 「はいはいはいごめんなさいごめんなさい」
彼女から手紙が届いたのは、少し前の事。 一年遅れて大学に無事合格した彼女の最愛の妹と彼女が、めでたく同居を開始したとのそれは報せだった。 その事実に対してお祝いとは大げさな、とは誰も思わないだろう。 彼女たちにとってそれは、とても大きな意味のある第1歩なのだから。
「てか、そんな事してる暇あるのかしら私たちに」 「何よ」 「院試、近いじゃないお互いに」 「そういう心配はあなただけしてれば良いのよ」 「えー、何それー」
エアコンの効いた百貨店の中にもぐりこんで一息ついた後も、言葉の応酬は続く。 足早に走り抜けようとしたフロアの途中、不意に何かに誘われるように足が止まる。
「……聖?」
訝しげな声にも構わず立ち止まり、ショーケースの中、白い硬質な光を放つそれをじっと見つめる。 あの夏、掌に感じたあの冷たさ。 夜を彩った、花火。 何も言えないでただ傍に居ることしか出来なかったあの日の自分。 折り重なって打ち寄せる思い出にほんの少しだけ瞑目して。 振り返った先、どうしたのと言いたげに首を傾げている呆れ顔に、あの日の彼女の笑顔が重なる。
「ねえ……」
呼び掛けた後の言葉を探りながら、自然と笑みが零れた。
また、いつか。 あの夏の海へ。 君と。
― 了 ―
070701:書き下ろし、即、己的本サイトにUP(何)。 間違い探しはほんの数箇所(何々)。
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