心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年12月20日(火) 助けにくい人たち

あまり雑記を更新しないままだと叱られるので、軽いテーマで。

昨夜はステップミーティングでした。ステップ12。どうやって新しく来た人にAAのメッセージを運んだらいいか。もしそれが分からないのなら、自分がAAに来た頃に、どうやって「先ゆく仲間」から助けられたか思い出せばよいのです。たぶん忘れているでしょうけれど。

AAの序文はこういう文章で始まっています。

「アルコホーリクス・アノニマスは、経験と力と希望を分かち合って共通する問題を解決し・・・」

共通の問題とは何でしょう。ミーティングにやってくる人は、男もいれば女もいます。職業も学歴も家族構成も様々で、どこに共通点があるのか。

僕が初めてAAグループに属したとき、そこには3人のメンバーがいました。一人の男性は中卒のヤクザで両手の小指がありませんでした。彼はキレると、男が二人がかりでないと止められない「狂犬」と呼ばれた男でした(後に彼は僕のAAスポンサーになってくれた人であり、まさに恩人です)。もう一人の女性は、彼が精神病院入院中につかまえた奥さんで、やっぱりアル中でした。もう一人の男性は、高速道路のサービスエリアにおみやげ物のお菓子を補充して回る職業でした。年若く世間知らずだった僕は、そんな職業があることを初めて知りました。

そこに僕がやってきました。ビックブックには「私たちはふつうなら出会うことさえもなかった者同士だ」とありますが、まさにそんな感じでした。いったいこの4人にどんな共通点があったのでしょう。

彼らは「かつてどのようであったか」。つまり酒を飲んでいた頃はどのようだったかを話してくれました。僕もたいていの人と同じように、最初の頃は「自分はこの人たちほど重症じゃない」と思っていたものですが。

でも、何ヶ月か経った後に、「もう俺たちは気持ちの良い酒なんて飲めないんだぜ」と言われたときに、僕もその通りだと認めざるを得ませんでした。飲み始めの早い時期は気持ちの良い酒を飲めたのですが、飲んでいた最後の頃は、確かに酔っぱらいはするのですが、全然気持ちよくありませんでした。それでも酒がやめられませんでした。そして、いまは飲んでいなくても、やがて酒に手を出す可能性が高いことも認めざるを得ませんでした。

AAにやってくる人は「アルコールの問題」を抱えています。それが「共通の問題」です。ミーティングではそれを話さなくちゃなりません。

酒がやめられないと言う人もいるでしょう。また飲んでしまったという人もいるでしょう。そういう人をAAメンバーは叱ったり、説教したりしません。かわりに「私もあなたと同じだった」と言うのです。でもいまは飲んでいないことは相手にはわかるでしょう。すると相手は「どうやって問題を解決したのか」と疑問を持つようになります。アドバイスに効き目が出てくるのは、それからです。

AAミーティングは「自分の背中のほくろを見る作業」だと言われます。背中のほくろは直接見ることはできません。自分の顔だったら鏡を使えば簡単に見られます。けれど背中のほくろは鏡を使っても難しい。2枚使えば良いと言われるかもしれませんが、実際やってみるとこれが意外と難しいものです。

だから僕らは、ミーティングではつまらないプライドという服を脱ぎ捨てて、自分の背中を相手に見せるのです。つまり飲んでいた頃の過去の話をします。「ほら、俺の背中はこうなっているんだぜ」と。すると相手はこう思うかも知れません。「あいつの背中がこうなっているのなら、俺の背中も同じかも知れない」。

自分の抱えている問題というのは、それほどまでに直視するのが難しいものです。だから、こういった技法が必要になるのです。

9月に松本俊彦先生の講演を聞きました。依存症者は援助希求能力が低いという話でした。援助を求める能力が低い。助けてくれと言えない人たちです。

これから年末は町に酔っぱらいが増えます。酔っぱらいに「大丈夫か?」と尋ねてみれば、「らいじょうぶ、らいじょうぶ、れんれんらいじょうぶ」という答えが返ってくるでしょう。全然大丈夫じゃないのにね。でもこれは酔っているからだとお考えかもしれません。

じゃあ、酒をやめたばかりのアル中に、助けは要らないかと尋ねてみれば、どんな答えが返ってくるでしょう。「大丈夫です。酒は一人でやめられます」。これが援助希求能力の低さです。しらふになっても全然変わっていません。助けにくい、助けづらい人たちなのです。

(松本先生の話はこんな話じゃありませんでしたよ、念のため)。

AAメンバーである僕らも、酒はやめているとは言え、まだまだ幼稚で過敏なところは抜けきっていません。だから、相手が深刻なアルコールの問題を抱えているのに、それを軽く見ているのに出会うと、イライラしてしまいます。ついつい、それを指摘し、アドバイスし、時には説教をかましたくなります。でも、相手はそれを受け入れる状態にないってことを忘れてはいけません。

とは言うものの、時には具体的なアドバイスがなければ、前に進まないこともたくさんあります。僕らはアドバイスを与えるときは、スポンサーシップという一対一の関係を結びます。スポンサーはスポンシーのソブラエティの実現に積極的に関わっていきます。スポンサーをやってみるとわかりますが、スポンシーは酒を飲んでしまったり、AAをやめてしまったり、時には死んでしまうこともあります。

スポンシーが飲んだときに「もっと別のやり方をしていれば」と思ったり、死なれたときに「あいつの死には俺にも責任があるんじゃないだろうか」と悩まない人はいません。だからスポンサーは相手のことを真剣に考えてアドバイスをします。それは、イライラを解消するために、つい口をついて出てしまう皮肉とは180度反対のものです。

お分かりでしょうか。僕らは新しい人たちに「教え」たり「導い」たりしたくなってしまいます。けれど、相手の準備が整っていないうちに、そんなことをしても無駄なばかりか、時には有害です。それ以前に、相手に自分の背中を見せてあげなくちゃなりません。つまり「共通する問題」を分かち合うのです。

僕らはAAにやってきたときに、どのようにして仲間に助けられたか、しばしば忘れてしまいます。人というのは不思議なもので、ずっと昔から今の自分だったような気がしてしまうものです。でも、そうじゃなかったはずです。もっとヒドい状態だったはずです。それを忘れているから、新しい人に余計なことが言えるのです。

飲んでいた頃の話ができなくなったら、AAメンバーとして新しい人の手助けをする能力を失ったことを意味します。今日起きたことや、今週起きたことをミーティングで話している場合じゃありません。そういう人は自分にしか関心がありません。

僕らが相手にしているのは援助希求能力の低い人たち、助けにくい人たちであることを忘れてはいけません。僕ら自身がかつてはそうだったことを思い出しましょう。そんな僕らに対して、先ゆく仲間たちは、辛抱強く僕らが分かるまで、「共通の問題」について分かち合ってくれたのではありませんでしたか。それとも、もう忘れてしまいましたか。

かつては目の前の相手と同じだったという事実、それを分かち合う言葉こそが、医師にもカウンセラーにも持てない、当事者たる僕らにだけ与えられた特別な力であることを忘れないで。

だから僕らは、相手を手助けしようとするときに、飲んでいた頃の自分はどうだったか、という話をすることから始めるのです。12番目のステップとはそうやってやるものです。物事には順番があり、まず最初に問題について分かち合うのです。相手がいつ背中のほくろに気がついてくれるか。そのタイミングを知っているのは神様だけです。あなたが神様にかわってそのタイミングを決めてはいけません。

そういう説教臭い話をミーティングでしたのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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