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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年05月16日(月) 相談会をやって この週末には、アディクションの相談会というのをやりました。
いろんなグループから人が集まって、アディクション関係で悩める人の相談に応じようという企画です。集まったのは、アルコールでは断酒会やAA、ギャンブルだとGAとギャマノン、薬物ではNA、ACではACAとACODA、あと摂食障害のグループの方。ひきこもりサポートのNPO法人の方を除けば、職業的専門家ではないアマチュアばかりです。
そんな素人が相談を受けても的確なアドバイスができるのか疑問を持たれるかもしれません。確かに専門的なトレーニングを受けていなければ、とんちんかんなこともあるかもしれません。しかし、当事者には一つ大きなアドバンテージがあります。それは同じ問題を乗り越えた経験です。
悩んでいる人というのは孤立している人でもあります(社会的に孤立しているという意味ではない)。悩みを人に言うことができずにいます。そりゃそうだ。「酒がやめられない」などと同僚や友人にこぼしてみたところで、「やめたければやめればいい」と言われるだけですから。だから、解決にたどり着くこともなく、厭世的な虚無感の中にあります。本人には「どうせ私はやめられない」という思いがあり、家族には「どうせこの人には無理だ」という思いがあります。
しかし問題を乗り越えた人と接することで、「やればできるかも」という思いを持つことができます。この効力感が何よりも大事であり、当事者はそれを提供できます。
アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、本人よりも家族の相談が圧倒的に多いものです。家族の苦悩の深さに圧倒されることもあります。自助(相互援助)グループというのは、問題を認識し、それを解決する意欲を(多かれ少なかれ)持っている人しか来ないところです。だから、AAの中だけにいると、アディクションの問題を甘く見るようになってしまい、過剰な自信が生まれます。
まだ解決の兆しの見えない家族の悩みに接したとき、自分に正直であれば、力不足を認めないわけにはいきません。そうやって相談を受ける側も、自分の問題を把握することができることがメリットです。中には激しく動揺してしまった人がいましたが、それは自分の正直であるからこそです。今回の経験を役に立てて欲しいと思います。
回復につながる前には「介入」が必要です。AAに来た後も、仲間による支えが必要であり、回復のためにはステップも必要です。さらにその人が社会復帰できないのなら、ソーシャルワークが求められているのでしょう。さらにはアディクションには予防や啓発という分野もあります。AAはアルコール問題全体のほんの一部を担っているに過ぎません(その限定こそが良いわけですが)。
回復というのは、それを必要とする人のためにあるわけではなく、求める人のためにあります。
回復を求める人が希望するならば、少々無理してもできうる限り時間を割いて接したいと思います。非才な僕でも経験を提供することだけはできます。足りないスキルを身につけようとも思います。その時、僕が相手を好きか嫌いかは関係がありません(僕の回復の相手をしてくれた人たちは、僕を好きだったとは限らないのですから)。無理な押しつけなどその時に生まれようもありません。
しかしその人が回復を求めていないのであれば、何を提供しようが押しつけだと思われるだけです。その時には上の理屈は脇に置いてかまわないでしょう。
とまれ、何でもやってみることは良いことでした。「やればできるじゃん」というのと「できたけど、これじゃまだ不十分」という二つの気分が同時にあるのは当たり前か。「私は回復した」というのと「でもまだまだなんだよね」という気分が同居するように。
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