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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年11月04日(木) 魂の避難所 何か一つのことが絶対的に大事であったら、どんなにか楽であろうかと思います。
たとえば、何か一つのことだけをやり遂げれば、酒が止まって幸せになれる・・とかだったら。
しかし現実はそうはいきません。
例えば僕はスポンシーにはAAミーティングに行くように要求します。相手の状況にもよりますが、ソーバー1年目だったら毎日行くぐらい当然だと思っています。仲間とのふれあいは断酒を続けさせる「支え」をもたらします。だから、この曜日はAAのミーティングが近くにありません、というのなら断酒会にお願いして行ってもらっています。
ではミーティングが絶対で、ミーティングに通えばそれでオッケーなのか、といえばそうではありません。「支え」を得て飲まない生活を続けてくれるのは大変結構なのですが、支えから離れたとたんに飲んでしまうのでは困ります。3年間熱心にミーティングに通ったあげく、就職してミーティングの数が減ったら飲んでしまったという人がいました。愛着形成してくれるのはいいのですが、ママの支えが必要で「一生ママから離れられない」のも困りものです。
ある程度ミーティングから離れても飲まないでいられるようになるには、その人が変わらなければなりません。この変化を実現するのがステップです。ミーティング通いが忙しくてステップができない、例えば棚卸し表が書けないというのなら、ミーティングを休んで表を書いた方が良い。変化を先送りするメリットはありませんからね。ここでミーティングの絶対性は崩れます。
ではステップが絶対的に大事で、ミーティングはなくてもいいのか? そんなことはありません。ステップをどこまでやろうとも、僕らは回復や成長の中途にあるのであって、完成されることはありません。また、どんなにソーバーが長くなろうと、仲間の支えは役に立ちます。
神との関係が大事だという人もいますが、それだけあればいいわけではありません。神さまは声を持ちません。神の声が聞こえるというのなら、それは依存症とは別の病気でしょう。声を持っているのは仲間たちであり、僕らがいるべき場所も人間のあいだです。ステップの本にも、着想を得たらそれを誰かと相談してみるべきだとあります。
では人間関係が絶対に大事かと言えばそんなこともなく、僕らの病気が人間への執着となって現れたことは多々あったわけです。
こんなふうに、回復や健康に必要なのはなにか一つではなく、たくさんの要素がバランスよく必要です。それはまるで栄養をバランスよく摂取するのが必要なように。
しかし、ときおり弱った心、弱った魂が、絶対的な一つの何かに寄りかかりたくなる誘惑に負けることがあります。その背景には、「自分はこれをやっているから大丈夫だ」と自分を安心させたい心理があるのでしょう。たとえば、自分はAAミーティングに通い続けているから大丈夫だとか、ステップをやっているから大丈夫だとか・・。そのような「魂の避難所」というのは、人生にはどうしても必要なものです。そこで一時の安らぎを得ることまで否定する権利は誰にもありません。
しかしいつまでもそこにとどまっているわけにもいきません。
まだミーティングにも続けて通うことができないでいる人に、こんな話をすると、ろくでもない屁理屈を考え出してくるのでしないほうがいいわけですけど。
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