心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年08月18日(水) 誤解への恐れ、自信のなさ、話の長さ、うるささ

以前、統合失調症の息子(といってももう成人)を持つ父親の作ったサイトを読んでいました。ブックマークしておくのを忘れ、最近検索しても見つからないので、たぶん消してしまわれたのでしょう。

病気についてのサイトだと、症状や原因や治療についての記述が多くなるものですが、その父親さんは病気そのものよりも、病気を得た息子の行動パターンに関心があるようでした。例えば、なぜ息子が身近な人ではなく世の中のほうに関心を向けるのか? それは人間関係が苦手なので人の相手をせず、テレビやパソコンに向かって政治や経済を論じていた方が楽だから(つまり苦手なことから逃げ出しているだけ)。そのことと病気と関係があるのかはわかりませんが、そんな具合になかなか興味深いサイトでした。

その中に、「息子がなぜ目の前の議論にこだわるのか」というのがありました。

議論の勝ち負けにこだわる人がいます。あるいは、誤解されるとひどく気分を害する人がいます。相手にきちんと伝わらなければ気が済まない人がいます。

なぜそんな「こだわり」が生まれてくるのか。先のお父さんによれば、それは「長期的な損害回復に自信がないから」とありました。僕はそのことに深く納得しました。

議論に負けることも、自分を誤解されることも、相手に理解してもらえないことも、どれも「損害」です。人間誰だって、負けるより勝ちたいし、誤解されたくないし、理解してもらいたい。それは損害を被りたくないからです。

例えば僕が「心の冷たい人だ」とか「仕事ができない使えないヤツ」と誤解されたとしましょう。それは僕の評価が落ちる損害をもたらします。けれど長い目で見て、誤解をした人との付き合いを続けていけば、「ひいらぎは思っていたより冷たくはないのかもしれない。いやむしろ思いやりのある暖かいヤツかも?」とか「こいつ意外とできるじゃん」という評価の向上がもたらされるでしょう。

長い目で見れば、自己評価(セルフエスティーム)に対する損害はたいてい回復することができる、と信じることができるのが「自信」だと思います。

自信がない人は、いつも議論に勝って、誤解があれば必ず解き、人々に理解してもらうことで、自らの優秀さを証明し続けなければなりません。十戦十勝でなければならないのです。なぜなら、九勝しても一つの負けが自己評価を大きく下げるからです。

何かを成し遂げようと努力を始めても、いつも途中で嫌になって続かないとします。すると、そのことに自分が飽きてしまう前でなければ、「自分がどんなに素晴らしいことに取り組んでいるか」をアピールできません。途中で放り出すヤツのほうが、やっているときはアピールがうるさいのです。一方長く続ける人は、いつか誰かがそれを見つけて褒めてくれることは分かっているので、鷹揚なものです。

中身がそれほどある話じゃないのに、妙に話が長くなる人がいます(AAミーティングでも)。話の中の状況を微に入り細をうがち説明を加えます。なぜ話の枝葉をそんなに詳しく話すかと言えば、その時の自分の判断や行動の動機を誤解されたくないからです。「ほら、こういう状況だったら、あなたでもあの時の私と同じことをするでしょう?」というわけだ。これも目の前の損害回避を優先させた結果です。

ブログでも妙に文章が長い人がいます。一つのエントリの中にいくつも話が入っていたり、一日にいくつもエントリがあったりします。なぜそうなるか。僕も雑記を書いているので分かるのですが、思いついたアイデアは、その時に全部話して(書いて)おかないと、次に話す(書く)機会が来たときに思い出せるとは限らないのです。そうなると、アイデアを表現することで自分の優秀さを示す機会を一つ失ってしまいます。その時に、十戦十勝でなければならない考えを持っていれば、今回すべてをだらだらと長く話す(書く)しかなくなってしまいます。

この「長期的な損害回復への自信」というのは、長い時間の中で自分の評価を良い方に逆転させた、という経験をいくつか経なければ得られないものなのかもしれません。子供が大人になるように、ある程度年数が必要なものなのでしょう。回復の中でも年数が必要な部分です。

などと書いているこの文章も結構長いのですけど。ともあれ「長く続かないヤツほど、やっているときはうるさい」ってのは確かです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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