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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年07月07日(水) 掲示板のつづき abstinence とは何なのかを考えています。
アルコールの場合には完全断酒です。
ギャンブルの場合も、GAのハンドブックを見ると、賭け事はすべてやめるとあります。
その閾は、ゼロのところにあって、皆に共通です。
で、以前に雑記で書きましたが、完全にゼロにはできないものもあります。
食べ物、買い物、共依存、感情。
こちらでは、閾はゼロじゃなくて、しかも人によって違っているはずだと書きました。
性依存のグループでも、皆に同じ基準を当てはめているわけではないようです(これはちょっと不確か)。
しかし、その閾の向こう側に行けばスリップになることは、アルコールの場合も、共依存の場合も同じはずです。
だから「共依存の場合にはプログラムをやっていても細かなスリップの繰り返しになる」というのはコンセプトとして間違っていると思うのです。その状態はやはり abstinence ではありません。
閾が決まるまでには、試行錯誤による細かなぶり返しが避けられないと思います。
食べ物の人の話では、過食おう吐を発生させないフードプランができあがるまでには、何度か失敗も必要なのだそうです。感情や共依存の場合も同じではないでしょうか(つまり、細かな感情的・関わりのスリップを繰り返して、行動の安全域が定まっていく)。
こうして考えると、共依存の場合に、まず見捨てるがごとくに、大きく距離をとるところから始めるのは間違っていないと思います。とはいえ、同じ家に住んでいてまったく関わらないのは、買い物を一切やめることで買い物依存を止めているのと同じように不自然なことですから、徐々に健康な関わりを取り戻していくということじゃないでしょうか。
しかし、関わりを戻していく途中には、以前の不健康なパターンが顔を出して、こまかなぶり返しを伴うものでしょう。それは、食べ物依存の人が失敗をしながら安全なフードプランを確立していくように、共依存の人も行動の安全域が定まっていくものでしょう。
そして、そうしたフードプランや行動の安全域が定まった後は、アルコールやギャンブルの人と同じように、そこから一切の逸脱を避けるのが abstinence ということでいいのではないか、と考えています。
ともあれ、共依存の問題というのは、他者の存在を脇に置いて、共依存者本人だけで決まるものです。隣でアル中が飲み続けようがやめようが、問題は共依存者の中にあるわけです。酒をやめる・薬をやめるために役に立つ行動ができる、できないってのは、共依存であるかどうかとは無関係だと思うのです。
(昨日の雑記で「共依存の概念が変わっちゃう」と書いたのも、単なる僕の揶揄で、本人の治療にデメリットがある家族の行動が共依存だという文脈で講演が行われていたわけではありません。念のため)
それともう一つ感じたことは、損得勘定による誘導がいいことなのかどうか。
被虐待の子供の面倒を見ている人が、問題行動(例えば子供の万引き)をやめさせるのに、万引きがどんなに迷惑なのか倫理観や道徳に訴えても効果が薄いため、万引きすると大人に怒られるからとか、大人になるとそれで刑務所に入れられるから、と「万引きしたら損だから」と教えた方が効果が高いという話がありました。DV夫のグループ療法にしても、薬物依存の新しい治療法にしても、同じです。
自分が人にかける迷惑とか、あるいは自分の健康、そんないろいろなことをおもんぱかって行動を変える・・・そういうふうに導くには手間も金もかかりすぎるのでしょう。だからこそ、「おもんぱかる」ことを期待せず、なんだか即物的な損得勘定で誘導する。
そのことにちょっと虚しさを感じてしまったのです(それがあの揶揄に形を変えて現れたのでしょう)。
禁煙が1年間続いたら報奨金を出す方法に批判があるのだとか。その気持ちが分かります。
とはいえ、それに虚しさを感じてしまうのは、自分が駆け出し(何の?)である証拠であるかもしれません。あるいは素人である証拠かも。
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