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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年07月31日(金) まずは自分を 53.4Kg, 7.4%
晴れのち雨
NHK教育で児童虐待の番組を見ました(これも結構古いの話)。
虐待されて育った子供は、感情に歯止めが効きません。例えば怒り出したら、相手が謝罪しようがお構いなしに、徹底的にやっつけてしまいます。怒りの感情を親に(も他の大人にも)受け止めて貰えなかったために、どこで矛を収めたらいいのか分からないのだそうです。
番組では施設(病院?)に預けられた中学生の女の子が、スタッフに「もうお風呂に入ったの?」と聞かれただけで、ブチ切れ暴れ続けている場面を流していました。お風呂に入る準備をして順番待ちをしていたのに、「もう入ったの?」と聞かれ、それが「まだ入ってないんだ!」と責められる理不尽と受け取ってしまったようです。
スタッフは彼女の感情の爆発に時間をかけてつきあい、話を聞き、暴れることではなく言葉によってコミュニケーションすることを学ばせていました。
こうして、(親はしてくれなかったけれど)感情を受け止めてくれる大人「も」いること、話を聞いてくれる大人「も」いることを知っていき、それが大人に対する、社会に対する信頼と絆を取り戻していく過程であるという話でした。
例え傷ついていたとしても、子供の心は柔らかく、傷を乗り越えて成長する余地があります。虐待する生き方を何十年も続けてしまった親のほうが変わりにくいのだそうです。そうした親自身、子供のころに虐待を受けているわけですし。
とはいえ「私は子供のころから親に虐められてきたので、いま問題行動を起こしても仕方ないのです」と開き直られても、周囲にとっては迷惑でしかありません。(こういう人に限って、正直な自己開示と「イタい私自慢」を混同する)。
傷ついたまま大人になった人は、なぜか「治療者」になろうとする人が多いのです。それが医者や看護婦として社会的に実現されればまだしも、自称カウンセラーというのは見ていて痛々しいです。自分の問題を放っておいて、人の問題に首を突っ込もうとしているわけです。
これを「傷ついた癒し手」というのだそうです。想像してみてください。満身創痍で血をだらだら流している看護婦が、他の人の擦り傷にバンドエイドを張ろうとしている構図を。まず自分の傷の手当てをお願いしたい。クライアントよりカウンセラーのほうが重症で具合が悪くては治療になりません。
カウンセリングの講座を受けるほど積極的でなくても、集団の中でカウンセラー的立場に身を置きたがっている人も大なり小なり同じでしょう。
病気を治す医者は、患者より健康でないと困ります。これはカウンセラーでも同様。そして子供の世話をする親についても同じでしょう。まずは自分の回復なのであります。
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