心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年10月03日(金) 恥?

病気であることは恥ずかしいことなのか、ということを再び考えてみます。

福岡で小学1年生が母親に絞殺された事件がありました。「我が子殺し」の倫理うんぬんという話はざっくり省きます。

僕はテレビを持っていないので、ニュース番組もお昼のワイドショーも見られません。新聞もとっていません。ニュースソースはネットの新聞社のサイトだけです。少なくともネットのニュース記事を読む限りでは、母親は「体調不良」あるいは「病気」であったとのみ、子供のほうは「特別支援学級」に入っていたという程度のあいまいな記述しか見かけませんでした。

母親が進行性の難病に苦しんでいたことや、その病名。あるいは子供の発達障害の程度ということは、ニュースには現れてきません。確かに病名などは明かすべきでない個人情報であるのかもしれませんが、他のことであれば容赦なくプライバシーを暴き立てるメディアが、ことこれに関してはあいまいにお茶を濁します。

そこがあいまいであれば、事件に至るまでの母子の事情よりも、殺人事件後の母親の狂言に興味が集まってしまうのは当然でしょう。

発達障害ゆえに母親を追いつめざるを得なかった子供。子育ても困難な病状に絶望していた母親。そのように追いつめられて、殺人事件という結果になってしまったことの「やりきれなさ」がこの事件のキモであると思うのですが、どうも世間は狂言の真意などのほうに興味が映りがちです。もちろん、ニュースメディアと言えども商売なのですから仕方ないことなんけど。

殺人という最悪の結果になるのだったら、その前に助けを求めれば良かったわけですが、それができない、それがしにくい世間の有り様。そして、ニュースに病気や発達障害のことが乗らない世間の有り様。この二つは同一のものでしょう。

つまり、「病気であることは、あるいは障害は、隠さねばならない<恥>である」という社会の有り様です。そして「そんなことになるなら、その前に助けを求めれば良かったのに」という話が、同じニュースメディアに流れていくやりきれなさです。

考えるのが面倒になったので、ここらへんでおしまい。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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