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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年06月25日(水) 理解を積み重ねない いままでのAAライフを振り返ってみて、僕は「経験を積み重ねてきた」とか「理解を積み重ねてきた」とは思わないのです。
もちろん、ある経験があって、それがあったからこそ、次の経験ができてというふうに重なっていくものはあります。理解についても同じです。一足飛びに次の経験、次の理解はできません。
「よし、これだ」と信じて深めていったものが何かあっても、そこは病気の人間ですから、理解がどんどん歪んでいって、最後は袋小路に入ってしまうことがあります。そういう場合には、無理しても先に進むことができなくなります。
結局、いままで自分がやってきたことを否定して、元に戻って別の方法へ進まなければなりません。過去の自分の努力を否定するのも辛いし、その過程でお世話になった人がいれば、その人から受け継いだ考えを否定するのも辛いものです。否定しながらも、次の道が見つからない状態が一番辛いものです。
否定されるべき過去とは、例えば棚卸しのやり方であったり、性格上の欠点や、自分自身への、他者との関係への理解だったりします。回復とか成長には、過去の自分のやり方(囚われ)を否定する(手放す)ことが不可欠です。それには、自分の今までの回復だって否定しなければならない局面もあります。だから、ソーバーの年数分だけ素直に回復を積み重ねるというわけにはいかないのでしょう。
そうやって自分の囚われをあぶり出しても、身に染みこんだ習慣はぬぐい去りがたく、自分はなかなか変わりません。結局回復も成長も、たいして変わらない自分のまま生きていくということであり、たいして変わらない自分のまま生きていけるのが奇跡なのだと思います。
さて掲示板ではたまちゃんに先を越されてしまいましたが。
ハイヤー・パワーが僕に酒を飲ませることはあり得ると思います。酒を飲まないことが善であり、飲むことは悪である、というのは僕のモノサシで計る尺度です。神さまはおそらく違うモノサシを使っていて、神さまにとっては僕が飲むことが善であることもあり得ます。神さまに「僕が飲まないことを善としてくれ」と頼むわけにもいきません。
その時が来れば、僕が飲むことは僕にとって意味があることかも知れません。あるいは、僕に意味があるとは限らず、ほか誰かにとってなのかもしれません。それでも大局的に見れば、僕にも意味があることなのでしょう。
このプログラムをやっていれば「ハイヤー・パワーは僕に酒を飲ませない」と信じるのは少々身勝手だと思います。神さまはいつも僕のことを考えいてくれ、僕に良くしてくれているのです。辛くて苦しくてたまらないことであっても(例えば再飲酒も)、起こることすべてにはきちんと意味があり、恵みです。
ただ僕は神さまほど頭が良くないので、(自分も他の人も)なんでこんなに苦しまなきゃならないのか、さっぱりわかんねーよ、とブツブツ言ってしまうのです。ついついね。
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