心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年09月02日(日) できることをする

とあるメーリングリスト(ML)で、メールによるオンラインミーティングが行われています。そのチェアを一年間担当して、先月末で任期が切れたところです。

今日は地元のAA地区のセミナーに、朝から参加していました。以前はAAのセミナーと言えば、廊下の喫煙スペースに人だかりができ、そのまま廊下で雑談にふける人が参加者の1/3ぐらいいた気がします。健康ナントカ法ができて、公共施設の館内でたばこが吸えなくなると、部屋の中で真面目に話を聞いている人の割合が増えた気がします。

さて本題。

回復とは人に何かを与えられるようになる過程だと思います。
飲んでいるアルコホーリクは、自分の渇望を満たすことが最優先になっています。回復とは、自分が「欲しい、欲しい」を連発するのをやめて、人に何かをあげられるようになることではないでしょうか。そして人に差し出すものの中で、物とか金というのは(実は)それほど惜しくないもので、時間とか愛情のほうが分け与えにくいものです。

何にせよ、人に何かを与えれば、自分の取り分は少なくなります。だからこそ、その行為を「自己犠牲」と呼ぶのでしょう。一見それは損に思えるものの、実は取り分を確保して手放さなかった場合より、(他のところで)補ってあまりある恵みが回ってくるわけです。このことはあまり難しく考えず、「情けは人のためならず」という言葉どおりで良いと思います。

しかし、なんでも自己犠牲ばかりしていれば良いわけではありません。
いつも誰かのわがままを無理に我慢して受け入れ、時間や愛情を与え続けたあげく、最後になって「もう我慢できない」と爆発して何もかも投げ出してしまうようでは、相手のわがままと大差が無くなってしまいます。もちろん、愛情とは我慢比べではありません。

ハビエル・ガラルダという人の 『自己愛とエゴイズム』 という本の中に、それを解決するのは自己主張だと書かれています。

それは「自分の水差しを葡萄酒で一杯に満たす事だ」と書かれていますが、酒が飲みたくなるといけないので「きれいな水で一杯に満たすこと」と言い換えましょうか。

自分の水差しから、皆のコップに水を注いであげる親切をして回ったあげく、最後になって自分の飲む分がないと恨み言を言い出すのは回復ではありません。水差しを満たす行為が自己主張です。

AAの先ゆく仲間を見ていれば、(自己犠牲の精神がある一方で)言いたいことを言い、やりたいことをやっている姿に気がつきます。それは一見わがままに見え、回復が足りないという誤解を生む事もありますが、まさに水差しを満たす行為を続けている姿です。

しかし、時には自己犠牲と自己主張が自分の中でぶつかり合うジレンマに陥ってしまうこともあります。その時は、良心の声に従えばよいのだそうです。ですから、僕らは自己犠牲・自己主張という表面に現れる「行動」のステージに留まらず、もう一段深い「良心」というステージでの回復を求める必要がでてきます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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