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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年01月21日(日) 空論 AAのメンバーになるために必要なことはただひとつです。
「飲酒をやめたいという願い」desire to stop drinking
です。
ひとつ質問があります。イエスかノーで答えてください。
あなたは飲酒をやめたいですか?
その人がイエスと答え、その人が望んでいるなら、その人がAAメンバーであることを否定できる人は誰もいません。
アルコール依存症であるかどうかは、問われていません。医者からアルコール依存症という診断をもらうことが求められてもいません。自分がアルコホーリクだと認める必要もありません。
もし、そんなことが求められていたら、僕は(そして今AAにいる多くのメンバーも)、最初のミーティングから追い返されていたでしょう。
この人は「アル中ではない」としか思えなくても、だから出て行ってくれとは言えません。AAは「診断も予後予測もしない」わけですから、人がアル中かどうかAAが決めることはないのです。
明らかにアル中の家族であるとか、他の依存症であるとか、依存症を持たないACであったとしても、その人が「私は飲酒をやめたい」と言うのなら、クローズド・ミーティングからでも追い出されてはならないし、発言の機会を奪われる理由にもなりません。
伝統3には、あるいは長文の伝統3にも、AAメンバーの資格はアルコホーリクであること、とは書かれていません。
変な結論ですか? わざわざおかしな結論に導いたのです。
教条主義とは、書かれている字句を絶対視し、現実を見ずに機械的に適用しようとする態度です。
そうではなく、一字一句に囚われず、本質を見抜いていかなければならないのですが、それには自分の頭を使って考えねばなりません。教条主義は、考えなくてもいいので、楽なのであります。目の前で人が苦しんでいても、教条を持ち出せば、何もしない自分に罪悪感を感じなくてすみます。
クローズド・ミーティングに、他の依存症の人がいるのを問題にする人がいます。第一の目的とか、目的の単一性とかを理解していて、「原則はこうだ」と言っている人はいいのですが、単に自分の正義を実現するために、伝統の文章を持ち出してくる人は困ったものであります。
そういう無思考の態度は伝染しますからね。愛ではなく、冷淡な態度を広めているだけであります。
教条を振りかざす人に対しては、「こう考えれば逆の結論だって出るよ」とからかってやりたくなります。それが上の文章です。
原則(AAの伝統)と現実のギャップに悩み、自分の頭で考える。それで出た結論なら、僕と違った意見でも、尊重したいものです。
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