ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2006年09月07日(木) 「底つき」について 依存症からの回復には「底つき体験」が必要なのだと、良く言われます。
ヘイゼルデンのカタログを見ていたら、hitting bottom という言葉と一緒に、ショックを浴びて何か大切なことに気が付いた人のピクトグラムが描いてありました。
底つきとは何なのか、それぞれの人の、それぞれの体験があって、その人なりの「底つき」への理解があるはずです。何が正しくて、何が間違っているとは言えません。
だから、これは僕の「底つき」への理解です。
底つきとは「気付く」体験なのだと思います。
アルコール依存症は否認の病気なのだと言います。最初の否認は、自分には酒の問題はないという主張です。自分の飲酒はトラブルを引き起こしてはいないし、仮に誰かが迷惑しているとしても、「やめようと思えばいつでもやめられる」んだから、何も問題はない・・・と。
突き詰めて言うと、「飲みたいから飲んでいるのであって、やめられないから飲み続けているわけじゃない」という主張でしょう。
そうは言っていても、人は様々な理由で酒をやめます。
周囲の圧力に屈したからかもしれません。入院したから。一大決心をしたからかもしれません。いろいろです。
やがて、もう一度飲む時がやってきます。
人は再飲酒の理由を考えるものです。なにしろ、まず自分が納得できる言い訳を考えなくてはいけませんから。どうしても飲みたくて我慢できなくて。あるいは、ふと気が付いたらもう飲んでいた。あるいは、状況に流されて飲まざるを得なくなった。
客観的な事実はひとつです。「病気だから酒を飲んだ」
「やめようと思ってもやめられない。やめる能力がない」
そのことに気付くのが「底つき」なんだと思います。
だから、最初の再飲酒のときに「底つき」を感じることもできたのでしょう。でも、僕の場合には、道ばたの石にけつまずいたぐらいにしか感じられませんでした。ああ、アル中の妄想のなんと深いことか。
やがて病気に罹ったことを認め、助力を得て、酒をやめる人もいます。
酒をやめることは大切です。まず酒をやめてみないと、第二の底つきはやってこないですから。
第二の否認は「自分には酒以外の問題はない」というやつです。
いろいろとトラブルはあるけれど、それも何も「酒を飲んでいたのがいけなかった」という理由付けがあって、今後飲まなければ物事は良い方に進むはずだと信じているのです。
実は何年飲まないでいても、苦しさが和らぐことがなく、相変わらず生きるのが辛かったりします。飲まないでいるって素晴らしいと自分に言い聞かせながら、本当はそれは嘘だと感じているのです。
対人関係で、不安になったりイライラしてみたり。自分の境遇にいつも不満を持っていたり。何をやっても面白くなかったり。どこの職場に移っても、必ず一人はやな奴がいたり。
こういう自家製の不幸について、格好の言い訳があります。
「自分の悩みはありふれているのだ。世の中に悩みのない人間などいない」
酒を飲んでいた頃は、世の中の大半の人は酒飲みであると信じたかったわけです。実際には、毎日飲む人は少数なんですが。第二の否認にも同じ言い訳がでるにすぎません。
やがて、いつか気が付く=底を突くときがくるでしょう。
酒をやめたくなかった本当の理由は、生きるのが辛かったからだと。飲み出す前も、飲んでいる頃も、止めた後も。
第一の底つきで「酒をやめたい」という願望が生まれたように、第二の底つきでは「幸せになりたい」という願望が生まれるはずです。
最低限の金銭や、最低限の身の安全がなければ、幸せはとても難しくなります。でも、それがあっても不幸なのは、もはや「誰か」とか「世の中」のせいではないよね。
お金はいくらあっても困らないけれど、どれだけ酒を飲んでも飲み足りることのなかったアル中が、どれだけ金を手にしても足りないですよ。
自分には幸せになる権利なんかないんじゃないかと、疑ってませんか?
もくじ|過去へ|未来へ