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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年04月08日(土) 幸せ 満たされない。と不満を言うよりも、満たして欲しいと願うことのできる自分に幸せを感じたいと思う。
僕は欠点の多い人間であります。
その欠点を一生懸命隠して生きていこうとしているのです。
だが、悲しいかなそうした欠点は、よろいの隙間からちゃんと見えてしまっていたに違いありません。
いままでも、ずっと。今も。これからも、ずっと。
そのことを考えると、ちょっと切ないです。
が、自分では必死で隠していた(つもりでいた)欠点が(ずっと)見えていたにもかかわらず、僕の周りにいる人は、僕に対して相当な尊敬と愛情を示してくれていたのであります。
これを見せてしまっては、もう二度と人の尊敬を勝ち得ることなどないに違いない・・・そういう恐れが常につきまとっていたわけです。知られまい、知られまいと思えば、自分を良く見せようと必死になります。実際よりよく見せようと思えば、人は高慢になります。
高慢は人を傷つけるから罪なのでしょうか。
そうかもしれません。しかし高慢は何より自分を苦しめます。
「愛されたい」と思うからこそ虚飾を施すのです。でも、飾るほど、今自分が受け取っている尊敬と愛情を感じることができなくなります。愛されない、尊敬されない自分には価値がないと感じるので、余計に飾るようになって、あとは無限の悪循環です。
いま受け取っている尊敬と愛情を信じることが「少し」でもできれば、今は感じることのできない「残り」を感じることができるのでしょう。
自分はもっと愛される人間だ、もっと尊敬されてるべき人間だという考えは、「気取り」なのだそうです。自分は愛されていない、尊敬されていないと感じるのも「気取り」でしょう。自分はくだらない人間で、愛されるべき人間でも、尊敬されるべき人間でもないと感じるのは、一見謙遜であるようで、実は高慢と少しの違いもありません。心の底では、愛されたい、尊敬されたいと叫んでいるのですから。
今受け取っている愛情を信じるのではなく、求めるだけの愛を得られた時だけ幸せになれるという考えは、人が陥りやすい罠なのでしょう。
よろいの隙間から、つまらない、くだらない自分が見えていたにもかかわらず、自分の予想を超えるものを受け取っていたのです。
「満たされたい」という願望そのものを否定したくはありません。ただ、満たされないから苦しいのではなく、気取って自分の首を絞めているから苦しいのであって、そういうのはやめたいなあ、と思うのであります。
そう思うだけであって、そういう自分になれるかは別問題ですが。
こういう神妙な文章を書いている時は、人に言えないことで悩んでいるだけだったりして。
ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。ニ・ニ・ニーチェかサルトルか。と歌っていたのは野坂昭如かな。
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