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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年03月16日(木) プロフェッショナルの偏り 昨日は市民ニュースの偏りが、個人の熱意の偏りを反映しているという話でした(だったような気がする)。
僕は新聞は産経新聞のネット版を読んでいます。月に500円と安価なのと、新聞紙を捨てる手間がいらないからであります。義父母のいる母屋では読売新聞を読み、実家へ行けば朝日新聞を読みます。歯医者や飲食店では、朝日があればそれを読みますが、無ければ毎日だろうが日経だろうが赤旗だろうがかまいません。
こうして読み比べてみると、同じ事象に対しても各紙微妙に伝え方が違っていることがわかります。たとえば産経や読売は朝鮮半島や中国大陸に厳しく、朝日は半島や大陸に優しいのであります。などと書くとさっそく「そんなことはない」とお叱りを受けたりするわけですが、どの新聞だって「うちは公正公平を旨とした編集方針だ」と主張するのは当たり前で、それを鵜呑みしたりするのは危ないことであります。
ではそういう偏りがどこから生まれてくるかというと、つまるところ「読者が望んでいること」を供給するのがニュースメディアであるからだろうと思うのです。ある人が「もし国民の9割が日本に軍隊があることを望んだとしたら、朝日新聞の社説だって9条改憲支持になるだろう」という話をされていましたが、新聞社というのは大きなところでは何千人という社員を抱え、配達員まで入れればもっとたくさんの人がそれで生業をたてている営利企業であります。そして、営利企業というのは顧客第一なのは当然です。
新聞は社会正義の手段であるとか、公器であるとか言われますが、大切なことはそれが事実であるかどうかではなく、読者がそうあって欲しいと願っていることであります。
さて、ニュース検索に引っかかっていなかったのですが、毎日新聞の社説禁煙治療 依存症の軽重無視する子供っぽさと、闘論:禁煙指導への保険適用というふたつを取り上げてみたいと思います。
アルコール依存症に比べて、ニコチンは依存性が少ないし、社会生活が送れなくなるわけじゃないから依存症とは言えない。離脱・禁断症状は喫煙者によって克服されている(吸える場所でしか吸わない)から依存症とは言えない。だから治療の必要はない。
その理屈が正しいかどうかは問題ではありません。なぜニコチン依存症の治療に反対しているかという背後にある意図であります。それは「タバコを吸うことを病気として治療するのに反対」という人たちがたくさん存在しているということでしょう。
成人の二人にひとりが飲酒すると言います。けれど、毎日酒を飲む=常習している人というのは、僕が飲んでいた頃想像していたよりずっと少ないものです(そうであってほしかった)。ほとんどの人は、機会があって酒を飲む機会飲酒者です。そしてしょっちゅう飲んでいる常習者でも、相応の理由さえあれば飲酒を慎むことができる人がほとんどで、理由があっても「今日は止めておく」ことができない依存症者は、飲酒人口全体から見ればたかだか数%にすぎません。
ところがタバコは、人に勧められたときにだけ一服するとか、机の中に3ヶ月前の一箱がまだ残っているとか、そういう「機会喫煙者」はほとんどいないわけです。喫煙者の大多数が常習者であり、常習者の大多数が「今日は止めておく」ことができない状態であるわけです。
喫煙人口3千万の大多数が、「タバコを吸うのは覚醒剤中毒と同じ薬物依存です」と言われれば言われ無き迫害と感じるのでしょう。そう感じるのは個人の自由なのかもしれません。需要側がそう感じれば、供給するたばこ産業も困ったことだと感じるのでしょう。
何が言いたいのかというと、喫煙を治療するという風潮が困ったことだと感じている人が結構たくさんいて、そのたくさんの人の需要を満たすために、「喫煙は依存症じゃないよ」という報道が「供給」されるという構図です。
アマチュアがアマチュアらしく偏るように、プロはプロらしく偏るだけの話かも知れません。
最後に、検索対象から外れているうちにキャッシュに落ちてしまいましたが、なぜ大量飲酒中は男の性欲が落ちるのかという記事を取り上げておしまいにします。
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