ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2005年11月04日(金) 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
井戸から水をくんで、薪で風呂を沸かさなくても、蛇口ひとつひねればお湯がでてお風呂に入れる。確かに日本は豊かになったんだと思います。またあの薪を割って冬に備える生活に戻れと言われても嫌であります。
だが、薪割りや風呂沸かしに取られていたはずの時間が余るはずなのに、こんなに忙しいのはなんでなのでしょう?
きっと時間泥棒がいるんですよ。
明日は、山梨です。
さて10年前。
通夜の晩は、灯明を絶やさないという風習がありました。
ろうそくの灯を絶やさないように、誰かが見張り番をして起きているのであります。僕はその役を買って出て、そして皆が寝静まった後でこっそり酒を飲むつもりでいました。
しかし、その役目は叔父たちがやるからお前は寝ろと言われました。
じゃあ、叔父たちにつきあって起きていて、彼らが酒を飲むのにつきあおうと思いました。それならおおっぴらに酒が飲めるはずです。しかし、酒は用意されませんでした。「世の中の人のほとんどは毎晩酒を飲むものだ」という思いこみは、僕の(そうであってほしい)という願望にすぎなかったのでしょう。
葬式の日は、禁断症状がピークの日でした。僕は何度シェーバーでひげを剃っても、あごがチクチクするという幻覚に悩まされていました。葬式の席で酒にありつけるだろうという願いはかないませんでした。
親戚中の誰もが、僕がアルコール依存症であることを知っていました。
思えば従姉妹が新興宗教にかぶれ、それを脱会させるためにマンションの一室に隔離(監禁とも言う)させる騒動の時にも、僕は何の役にも立ちませんでした。新興宗教にかぶれる心理について「わかったようなこと」を言って呆れられていただけでした。
前の年に祖母が亡くなったときは、アルコールの専門病院に入院中で、葬式のために外泊にでたものの、電車の中で酔っぱらって帰ってくる始末で、家で泥酔してしまい、葬式の役には立ちませんでした。
「お前がしっかりしなくてはいかん」という無言の圧力が、四方八方からかかっているような気がして、さすがに飲もうという気にはなれませんでした。
集会所を借りた本葬の後、火葬場で待っている間、お骨を拾った後のお清め、自宅に帰った後で近所の人にご苦労様、最後に親戚の人に。都合五回酒の席があったと思います。僕は11月だというのに汗をかきながら、少し震える手でビールや日本酒をお酌をしてまわりました。
もう酒を飲んではいけないのだろうか、それともまた酒を飲む日常に戻ろうか、ただそれだけのことが頭を支配していて、父が死んだ悲しみを感じることはありませんでした。
片づけが終わって、最後に兄が余った酒を酒屋に返しに行くという段取りになりました。僕はこれだけたくさん酒が余っているんだから、一本ぐらいなくなってもバレやしないだろうと思って、一升瓶をひとつ自分の部屋に隠しました。
しかし、母はお見通しだったようで、「一升瓶は18本。持って行ったものを返しなさい」と僕を叱るのでした。
翌日は、その年からかかり始めた精神科医を受診して、こんなふうに禁断症状も出て苦しいのだが、結婚式も迫っているので精神病院に入院するわけにも行かず、「先生何とかしてください」と泣きついてみたところ、「緊急避難的に」ちょっと強めの精神安定剤を処方されました。
「お酒の代わりに、これを飲んで、ともかく結婚式を乗り切りなさい」というわけでした。
吉事の前に凶事があったからお払いをすべきだという話が、どこからともなく出てきて、僕の実家は廃仏毀釈で菩提寺を失って以来、何かあると神主を呼んでいたので、祝詞をあげてもらいました。
安定剤の助けがあったからといって、ともかくその後結婚式まで飲まずにいたのは、やはり父の人生の最後の数日間から酒を奪ってしまったのは、僕の飲酒に問題があったからだと意識していたからでしょう。しかしそうした反省の気持ちも、その後の再飲酒によって「一番苦しいのは俺だ」という考えにかき消されていってしまいます。
そういえば父にあのとき、すごく悪いことをしたな、と思い出すのは、実にAAでの再出発から1年以上経過してからであります。それほどまでに、僕は冷たい人間なのであります。
(この項、おわり)
もくじ|過去へ|未来へ