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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年10月15日(土) 10 years ago (7) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
娘たちと3人でバスに乗ってママのお見舞いに行きました。
なぜバスか?
それはパパが仕事の日も、子供たちだけでママに会いに行けるようになるための練習です。まあ、実際問題として小学校3年生と1年生でバスに乗せるかは別として、バスに乗るのも社会勉強かなと思って、雨の中、ジジババが反対するのもふりきって、でかけました。
事前にバスの路線図と時刻表をネットからプリントアウトしておきました。市内は複数の路線が入り乱れているため、バス停によっては、どのバスに乗るのかかなり注意しないといけないところもあります。けれど我が家の直近のバス停は、大学病院の前にも止まる循環線が通っているだけです。30分に1本という割合です。
バスに乗れたので、こどもたちはたいそう楽しそうではありました。
入院治療計画書というのを見せてもらいました、入院の目的は「休養」で、入院期間の目安は3〜4週間。すでに一週間経過しているので、あと2〜3週間で退院かもしれません。もっといろいろ薬を変えてみたりしてじっくり入院してもらいたい気持ちもあるのですが、結局「休養」で終わってしまいそうな気配であります。
まあ、入院を機会にいろんなことを見直すきっかけにはなりましたが・・・。
それにしても、サーバーへの嫌がらせ的攻撃が減りません。対策もいたちごっこなので、新しくサーバーを借りて移転の準備を始めました。今度のサーバーもBSDであるうえに、シェルまで使えます。これでますます我が家のパソコンにLinuxを入れる理由が減っていきます。
Perlスクリプトのたぐいは書き直しを迫られるものもあり、移転の準備にはしばらく時間がかかりそうです。
さて10年前。
老人の口から出た言葉は叱責でした。
「お前さんは生きていないよ。生きていないのに生きている意味がわかるわけがない。生きてみれば生きる意味はわかる。生きりゃいいんだ。ただ生きてみろ」
またしばらく沈黙が訪れた後、母が「ご迷惑をおかけしまして」などということをしゃべり、ミーティングは終わりになりました。
みんなは帰っていきましたが、いつも僕を迎えてくれていた会場チェアマン夫妻は残って、僕ら親子に声をかけてくれました。そして、「せっかくここまできたんだから、もう少し話をしようや」ということになって、僕らはチェアマン夫妻の車の後を追って、夫妻の家へと向かったのであります。後に僕のAAスポンサーになってくれるこの人の家を訪れたのは、後にも先にもこれ一回です。
八ヶ岳の山麓の高原にその家はありました。その家の2階の一室に招かれ、座布団の上に座って、気楽に話をしようということになりました。
ですが、僕は出かける前に飲んだ酒が回ってきていて、気分が悪く、機嫌も悪くなっていました。僕はチェアマンに絡み始めました。
「おい○○○(呼び捨てであります)。あんた、5年もAAをやっていて、飲まないでいるのが3年てことは、最初の2年はやっぱり飲んだってことじゃないか。それに、いつも自分で言っているが、5年かかって結局飲まなんでいるのは、自分と奥さんだけだろう。他の人を助けるとか何とか言ったって、5年間でほかに一人も助かってねーじゃねーか。偉そうなことを言っていたって、こんなAAなんて効きゃーしねーじゃねーか」
後のスポンサーは、元やくざ者であります。おまけに両手とも小指が半分しかないという人です。キレると男二人で羽交い締めにしないと止まらないという人であります。はらわたの中は煮えくりかえっていたに違いありません。が、耐えた。我慢したのは、僕の母の手前、僕を殴るわけにはいかなかったからだと、後日語っています。
調子に乗った僕は、神について何を知っているか問いました。チェアマンは「たいしたことは知らん」と答えるのが精一杯でした。
さらに勢いづいた僕は、「ほーらみろ、そんなあんたがやっているから、いつまで経っても誰も助からねーんだよ。世の中にはできる人間とできない人間がいるんだ。俺が本気でこれを(とミーティング・ハンドブックを振り回しながら)やったなら、俺みたいな優秀な人間がやったなら、あっという間に何万人と助けてだな、全国から教祖さまとあがめ奉られるようになってやるぜ!」
後のスポンサーは僕のことを「完全な狂人」だと思ったそうであります。僕の記憶はこの後少し飛んでいて、夫妻が僕らを高速道路のインターチェンジまで誘導してくれたところだけを覚えています。
この(後の)スポンサー宅でのやりとりを、僕はすっかり忘れていて、思い出すまでに2年以上かかっています。スポンサーはこの後3週間うつで寝込んだという話です。
また、当時はACという言葉が世に出てきた頃で、AAミーティングにACoAの人がやってきていました。彼女は僕の「生きている意味って何ですか?」という言葉に反応してしまい、ミーティングから帰った後もその言葉が頭から離れず、いっそのこと死んでしまおうと、飛び降り自殺をするために子供3人をつれて霧ヶ峰にドライブしたそうであります(未遂に終わったそうですが)。
そんな話も、僕が飲まなくなって何ヶ月した後で聞くわけです。
たぶん、もっと酷い言葉を使っていたのでしょう。でも、とぎれとぎれの記憶の中で思い出せることはそれだけです。
後年僕が調子に乗りすぎることがあると、スポンサーがいさめて「さすがに教祖になって何万人も救う人は違うなぁ」と言うので、さすがのあの言葉はまずかったなと思うのでありました。
いつかしらふで訪れる約束をしたスポンサー宅ですが、なんだかんだいって訪れていません。近所では有名な猫屋敷だそうであります。
(この項終わり)
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