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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年09月12日(月) 10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
病院メッセージで会ったAAスポンサーに妻の入院の話をしたら、「3年・4年・5年の頃のソブラエティのまぶしい輝きも、7年・8年・9年とくりゃ薄れてくるもんだよ」と言われました。単に「人生に浮沈は当然」という事実を示しているに過ぎないのですが、ちょうどそのころに苦労したスポンサーの言葉には不思議な重みがあります。
それと、もう病院メッセージでしか会うことがなくなっても、やっぱりこの人は僕のスポンサーであり「先ゆく」経験ある仲間であるなぁ感じ直した次第です。
さて、大学病院の精神科の外来に、なんとか今日の最後の患者として受付をしてもらって、診察を受けました。自分が本人じゃなくて、家族の立場で診察室に座っているのは妙な気分です。「入院して休息を取りましょう」ということと「入院して薬をいろいろと変えて試して見ましょう」という納得できる診断でありました。当日から入院できる準備を整えていったのですが、ベッドが満床で1〜2週間待つ羽目になりました。
今日から主婦のいない生活を覚悟していただけに拍子抜けであります。
そういうことなら午後から仕事に行っても良かったのですが、ガストで食事を済ませたら無性に眠くなってしまい、夕方までぐっすり寝てしまいました。このように疲れがたまればぐっすり眠れるようになったので、そろそろ睡眠薬は抜いてもいい頃だと思うのですが、無事に復職が済んで、生活が安定を取り戻すまでは、医者もうんとは言わないだろうと思われるのです。
さて、10年前。
角館の街に唯一あるホテルに投宿した僕らは、さっそく夕食へと向かいました。
場所は居酒屋であります。メーカーの設備担当の3人は、仕事の話に夢中で僕にはさっぱりついていけず、一人でピッチ早く飲んでいました。30代だと思った有名な二人は、聞いてみるとすでに40代だそうで、確かに顔をよく見てみると、若そうではあるものの、目尻にしわが深く刻まれているのでありました。「家のことは妻に任せっきりで、近所に誰が住んでいるかも知らないよ」という言葉が印象に残りました。まあ、メーカーの設備担当で、しょっちゅうあっちへこっちへと飛び回っている仕事人間とはそういうものかもしれません。
その居酒屋の支払いを社費で済ませて、宿へ戻りました。
ホテルの自動販売機で缶ビールを買うのは僕だけでした。
翌朝、目覚ましをふたつかけたのにもかかわらず、僕は寝過ごしてしまい、1階のロビーに集合時間に現れない僕を心配して、ホテルの内線電話を鳴らされてやっと起きることができました。ですが、酷い二日酔いでバスルームに閉じこもらずを得ず、1階にいる3人を30分以上待たせてしまいました。
「今日は場所がわかんないだろうから置いていかなかったけど、明日は自分でタクシーで来てね」と皮肉を言われ、それはまさにそのとおりになるのでした。
高速道路の事故で遅れたはずの日通のトラックは、運ちゃんが驚異的な努力で時間を取り戻し、昼には機械が到着しました。
設置して通電し、あっちこっちのシステムのテストを済ませ、テストランを終わらせると、僕の本来の仕事はもう終わってしまいました。
あとは、こっちの下請けの社員に、この生産設備の使い方をトレーニングすれば、全員の仕事が終わって、翌日は角館観光を楽しむことだって考えられました。
昼食に行ったファミリーレストランのランチは、お米が「あきたこまち」でした。
「さすがに本場のお米はおいしいですね」と言うと、農家もやっているというそちらの社員は、「2年前の大不作の時には、あきたこまちは全部農協に供出してしまって、地元の農家はタイ米を食っていたもんだよ」と教えてくれました。
確かその年は僕の家(実家である農家)も限界まで供出させられ、翌年は増産のために休耕田を田んぼに戻すという作業を、禁断症状でぶるぶる震えながらやったことが思い出されました。でこぼこになった田んぼを平らにするために、田植え長靴を履き、鋤簾を持って、泥田の中をはい回った悪夢でした。
さて、何事もそう順調でないのは良くある話です。生産材の納入業者が長野と秋田では違うわけであります。そうすると生産設備に投入する材料も微妙に異なって、そのほんのわずかな違いのおかげで、機械が順調に動いてくれないという「良くあるパターン」にはまることになりました。
僕以外の3人は調整作業に忙しく働いていたのですが、僕は手持ちぶさたに工場の中をぶらぶら歩き回っていました。
「先に帰っていてもいいよ」と声をかけてくれたのですが、この3人に晩飯を食わせるというのも仕事のうちであります。待っていると調整が終わったのが、夜の2時半でありました。
夕食は一日前と同じ居酒屋に落ち着きました。
「俺たちは、どんなに遅くなっても一杯やる」というのが彼らのポリシーでありました。(他にも「禁煙車では移動しない」というポリシーもありました)。
そして僕は、酒にありつけさえすれば、何でも良かったのです。
翌朝、予定通り僕はホテルに置き去りにされ、タクシーで工場に駆けつけたのはお昼頃でした。機械は順調に動き始めていました。
「もう帰っていいよ」
と言われて、一日早く予定を切り上げて、一人先に帰ることになりました。
下請けの社長に角館の名所に寄ってから駅まで送ってもらいました。帰りの切符を買っても、まだ十数万円が僕の財布の中に残っていました。
内容的にはさんざんでしたが、一日早く帰れるのはうれしくてたまりませんでした。
サントリー・オールドの水割りの缶をいくつか買い込むと、秋の陽に照らされる東北の風景を見ながらちびりちびりと飲みました。なんだか多幸感につつまれて、何もかもがうまくいくような気がしたものです。
盛岡で新幹線に乗り換えるまでは、何の問題もありませんでした。仙台までは乗客も少なく、マンガ雑誌を読みながらゆったりと時間を過ごしていきました。
(明日へ続く)
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