終業式は来週の火曜日だが、もう気分は夏休みである。 そんな解放感がある。 明日も休日なのにいつもと同じ時間に出かけて、 高校野球の応援団の子たちを球場に乗せて行かなきゃならない。 終業式後の夏休みも、生徒には夏休みでも、我々はそうではない。 仕事もいろいろあるし、毎日出校なのだ。 それでも、夏休みに入ったという少々気の早い解放感がある。
3日間の、猛暑の中での保護者会が終わったせいでもある。 それ以上に、きょうで授業が休みに入ったというのが大きい。
おそらくあまり重視されてないことだが、 授業をどう進めるかという問題は、時間不定で取り組まねばならぬ仕事で、 次の授業、これからの2、3時間の授業、次の教材、、といった単位で、 さまざまな形で、頭を悩ませなきゃならないのだ。 古典でもそうだが、特に現代文を担当すると、終わりなき課題となる。 帰宅後や休日も、いつも落ち着かないし、 余暇を楽しんでいたのを中断して、授業の準備をすることもある。 思いついたりひらめいたりしたときが、仕事の始まりだったりするわけだ。 他の教科の教員はどうか知らないが、国語科の教員の仕事は、 時と場所を問わない、いつも仕事に脅迫されているようなものである。 だから私は、教員の「勤務時間」などというものは規定しにくいと 思っているが、ここ数年、勤務時間なるものが厳しくなってきたのは、 教育委員会に入るほどの人たちが、そういう意味での切実な体験を してこなかったためであろう。 だから、一部の市民から疑義が出たときに、形式主義で解決するしかなかったわけだ。
これから1ヶ月余り、授業の進行に関する脅迫的な悩みからは解放される。 事務的な仕事ばかりに限定される。 それはかなり大きな負担軽減である。 きょう心に広がった解放感はそれなのだ。
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