2004年04月21日(水) |
「自己責任」という言葉 |
昨日、ご本家の天声人語(笑)を読んで、ハッと気づかされた。 「自己責任」という言葉を聞くたびに感じていた違和感というか、 何か妙に重圧的な響きである。 天声人語の筆者は、戦後すぐから政治・経済面で時折使われていたが、 「今回の使われ方には、なぜか、聞きづらさが感じられる」と言って、 その言葉の意味を究明しようとしている。
・・・・・・・ 辞書の「責任」にはこうある。 「自分が引き受けて行わなければならない任務。義務」 「自分のしたことの結果について責めを負うこと」 「責任」という言葉そのものの中に 「自分の」という意味合いがあるように見える。
今回の「自己責任」には 「自分でしたことの結果に『自分だけで』責めを負う」 というような強調が感じられる。 責任に、もうひとつ「自己」を重ねたところが重苦しい。 ・・・・・・・
あ、なーるほど、、重複表現だから違和感や重圧感を感じたんだ〜、、と ハッと気づかされた(古語では「おどろかれぬ」というやつだ)のである。 普通、わざわざ「自己責任」なんて言わないもんなぁ、、、、、、あっっ! そうかぁ、、、なーるほど〜、、、ともうひとつハッと気づかされた。 この言葉を使い、流行らせた人たちには、「責任」というものは、 逃れたり、転嫁したり、弱き立場の者に肩代わりさせるものであって、 自分で負うべきものなんかじゃないんだ! そう考えてみると、思い当たる事例はいくらでもありそうだし。。。 だから、わざわざ「自己」責任なんて言わなきゃならないんだ。
我々の語感では「責任」といえば、自分のことでしかない。 「自由と責任」と言うときに、わざわざ「自由と自己責任」なんて言わない。 けれども、「自己責任」と言わないと「自分で引き受ける責め」にならない、 そういう人種もいるということだ。 異なる文化圏に生きる人たちの言葉を理解するのは骨が折れるものである。
そして、今回の「自己責任」攻撃も、責任転嫁の実践のような気がする。
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