TENSEI塵語

2004年04月04日(日) 日の丸・君が代

「戦争を語り継ごうML」のメール版が毎日何通か入ってくるが、
日の丸・君が代問題についての橋本さんの意見に関連して、
ある人がこんなサイトを紹介していた。

「朝日 3月31日」
http://www.asahi.com/paper/editorial20040331.html
「読売 3月31日」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040330ig90.htm
「産経(産経抄) 4月1日」
http://www.sankei.co.jp/news/040401/morning/column.htm
「朝日 4月2日」
http://www.asahi.com/paper/editorial20040402.html
「産経 4月3日」
http://www.sankei.co.jp/news/040403/morning/editoria.htm
「朝日 4月4日」
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

(この日記有料版にしたので簡単にリンクできるのかと思ったが、
 ボタンはあるのだけれど、ぜんぜんやり方がわからない、、)

朝日vs読売・産経の論戦である。
読売・産経は、日の丸・君が代を強制して当たり前派、
朝日は我々の常識的な線で、なにも強要までしなくても派のようだ。
それにしても、四半世紀前読売新聞を読んでいたころはそう感じなかったが、
実はあのころからこんなに右寄りの新聞だったのだろうか、、?
一昨日も似たような驚きを書いたのだが。。。

私自身は、儀式で自然に使われている分には、さして気にとめない方である。
体育大会で吹奏楽の演奏してくれと言われれば、文句言わずに指揮している。
国旗掲揚とのタイミングを気にしいしい指揮している。
一般的な儀式の場に、国歌や国旗が登場しても何の不思議はないのである。
学校の儀式だって、基本的には同じことである。

けれども、そこに強権が絡んでくるような様相を帯び始めると危険を感じる。
愛国心教育という言葉とともに国歌・国旗が強要されるとなると、
一方では侮蔑しながらも、一方では恐怖せざるをえなくなるのである。

侮蔑というのはなぜかというと、愛国心と国歌・国旗とは別物なのに、
国歌・国旗を押しつけることによって愛国心を育てようなどという考えに、
実に浅はかなものを感じてしまうからである。
そんなことしなくても、よほど不幸な生活をしてない限り、
たいていの子どもも大人も、自分が生まれ育って来たこの国を愛しているだろう。
スポーツの世界大会なんかになると、
私などは、戦争じゃないんだから、何も日本選手ばかり応援しなくても、、
と思うのだが、がんばれ!ニッポン! で大騒ぎになるではないか。
更に、日本の文化遺産や風物や言葉について知れば知るほど、
日本という国の特異性を愛してやまなくなるはずである。
こういう意味での愛国心は、国土を徹底的に守りたい方に向かうから、
反戦的な方向に向かうはずである。
だから、そうムキになって国歌・国旗を強要する必要などないのである。

その必要のないことにムキになるのは、
ムキになっている連中が求めているのが、そういう自然な愛国心でなく、
忠誠心だからである。
国歌と国旗を結びその先に見えてくる象徴的権威への忠誠心だからである。
それを、愛国心という美しい言葉でごまかしているわけである。
こういう意味での愛国心は、歴史が教えてくれているように、
好戦的な匂いを漂わせている。
いや、そんな生ぬるい表現は必要ないだろう。
忠誠心の強要は、戦時体制への準備だと言った方がよさそうだ。


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