ずんだいありー
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2005年05月16日(月) なにを学べと?

05/15(日)朝日新聞「声」欄

千葉県の中学校教員の投稿が掲載されていた。

「ラオスを旅して、仏教を厚く信じる人々の心に触れた。早朝一人に
僧侶にあい、聞くと毎朝3時に起床して読経→托鉢→朝食後夕方まで
僧侶学校で学んでいる。貧しい家庭に生まれ育った人たちの中には
親元を離れて、トタン屋根の寄宿舎で生活しながら教育を受けている人も多い。
学校は日本と違い、チョークも白一色だけ。暑く、薄暗い灯りの下で一心に
教師の耳を傾ける子供のその姿はメコン川のように眩しくたくましい。
日本では投げやりな生活を送る若者たちが増えているという。自分たちの
恵まれた環境に感謝し、一生懸命に毎日を生き抜いて欲しいと願ってやまない」

ねえねえ、この投稿から何を感じて学べばいい?
こいつの「シンプルライフファンタジー」には付き合えないなぁ。
それぞれ、生まれ育った環境が異なっている中、ラオスで懸命に勉強する僧侶と
日本で投げやりな生活を送る若者。お互いに交わることが無いこの二つを
比較することに何の意味がある?

いよいよおこがましいのはこの投稿者がラオスのその苦境をある意味
予想して期待してそしてお約束的に感動しているだろうことだ。
彼らの苦労になんの手も施しもせずに「あー、ここにこんなに必死に頑張っている
アジアのひたむきな子供たちがいる」って感じちゃってること。
何がメコン川のように眩しい、だ。ウゲー。

オマエはそんなこと言えるのか?
本当に彼らがたくましいといえるのか?
そのたくましさは彼らが望んだものなのか?
その辺、全く内省することの無いまま、この投稿者の
貧困アジアファンタジーを満たしていることに吐き気がする。
ある意味、コイツ自身が満たされていることの証か?

投げやりな生活を送っている日本の若者、に対してあまり
同情をする気持ちになれないのは理解すれども、彼らが競争や
比較、多様すぎるだろう価値観の中で揉まれているために生じる
アイデンティティの揺らぎやらを看過して「投げやり」と括るのは
あまりにも単一的じゃぁ、ないかい。

こーいうアジアンファンタジー、大嫌いで反吐が出る。

何を学べば、感じればいいのか分からない情緒的な投稿を
「選んで」掲載する朝日新聞の見識も疑う。さすが、だ(笑)

本来、「声」欄にはもっと多様な声が反映されて良いはず。
たとえば不正を追求する声に対して権力を持った糾弾される
当の本人や、逮捕された犯人の家族など、単一構造なマスメディア
の報道の中でかき消されてしまう真実の声を拾ってもいい。
市井の声なき声だけをくみ上げる、という朝日新聞のスタンスは
それ自体が非常におこがましい。

なーんて憤慨してたらあっちゅー間にもう02:30。
寝ましょ
寝ましょ


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