西日が差したら枇杷の実を食べよう
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私が愛し、尊敬する某ブシェサイトにアップされていたブシェミのインタヴュー。 現在の彼が、自分の仕事に対して、どんな風に考えているか、 今、何をやりたいのか、ほんの断片でも知ることができて、とても面白かった。
やっぱり、そのギョロロンとした瞳がめざしている先にあるのは、監督業なのねぇ。 私としては、単純に、画面にいっぱい映ってくれた方がうれしいので、 ホントはちょっと、いや、すごく寂しいんだけれど。
でも、一度、ディレクター業の醍醐味を知ってしまったら、 その達成感、充実感は俳優業の比ではないというのは、十分すぎるほどよくわかるので、 仕方ないっていえば、仕方ないんだけどね。 それに、現実的に俳優業から100%、リタイアするということは、 当分、ありえないだろうし。まぁ、いっかぁ。
で、インタヴュー中、「文学作品の映画化に関心が向いている」という、 くだりが、個人的に、ちょっと「興味しんしん」だった。
実際に、かなりの数の映画がいわゆる「原作つき」で、 現実問題、その「原作」と「映画」との関係は、 脚色のしかたによって、ものすごくクォリティーの差が出てしまう。 「それはいったいどうしてだろう」と、自分なりに、ちょっと、考えていたところだったので、 ブシェミの話しには思わず、引き込まれてしまったのよ。
「良い脚色」とは、ブシェミが言っているように、 原作をそのままストレートにシナリオにすることじゃないんだよね。
「良い脚色」とは??。うーん。 何ていうんだろ、個々の文学の持っているエッセンスというか、魂みたいなものを、 映画の作り手がきちんと理解するのが、まず基本で、 そこに、映像作家ならではのオリジナリティーあふれる視点と、 テクニックが付加された時に初めて誕生するものなんだろうな。 ね、ブシェミ。<いきなり、話しかけてもなぁ。
とまぁ、そんな風なことを、徒然とおもいつつ。 なにはともあれ、いい映画をつくっておくれ。 「ファンは、いいコで、待っているわ」。
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