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天竜



 コンプレックス

「死にたくなるくらい嫌なんだ」と君はせいぜい通り過ぎる夏風に乗せることすらままならないほどの小さな声で言う。「ガキの頃からからかわれてばっかりでさ」
万が一だ。万が一、君が口にした通り、君がそれを苦に死んでしまうようなことがあれば、俺はひとまず大蒜と十字架を用意して、しぶしぶ地獄の底まで君を追いかけにいく羽目になるだろう。なぜ行き先が天国ではなく地獄なのかって? それはこの前、俺が大事にしまっておいたココナッツブラウニーを君が勝手に食べたからさ。あれを買うのに俺が小一時間も行列に並んだなんてこと、君は知らないだろうし、言ったところで短気な君は「たいがい君は物好きだね」とあきれた顔をするだろうからね。まあ、どちらにしろ君と食べるつもりだったから別にいいんだけど。
「僕は君みたいなダークな色が良かった。セクシーだし、知的に見えるし、何よりモテるだろう?」
「まあね」俺が言うと、君は小難しい顔をして俺を睨む。
「ほら、そこなんだよ。もう少し君は謙虚さを覚えた方がいいと僕は思うね」
「ヘイ、話の論点がずれはじめてる」
「だからこの赤毛、染めようと思って。君はいつだって反対するけど、僕だってもういい大人だし、自分の髪くらい自分の意志で好きに変えてみせる」
「俺は別に反対してないさ。ただ、君はその色が似合うし、キュートだと言ってるだけだよ。君が気にしている鼻のそばかすもね」
「……意地が悪いな」
「どうせ髪の色を変えたところで裸になればバレるよ。アンダーだって同じ色なんだから」
「僕は変質者じゃないからそうやすやすと裸にはならない」
「俺が嫌だって言っても?」
「これは君の問題じゃなく、僕の問題だからね。コンプレックスを減らすことは同時に失った自信を取り戻すということだ。二十七にもなって過去のトラウマに足を引っ張られていることの方がナンセンスだと僕は思うね」
よく喋る口だ。できれば数時間前にさかのぼり、洗いたてのシーツの上でそのくらい喋ってもらいたかった。いざというときに限って、君はむっつり黙り込む。
俺がため息をつくと、君は少しだけ片眉を上げる。不安を感じたときの彼の癖だ。だけど負けず嫌いだからそれを口に出さないことも俺はよく知っている。気が付けばもう三年半も同じ屋根の下で暮らしているのだ。相手の癖のひとつやふたつ、理解の範疇にあるのも当然だ。
「まあ、君の意志がそれほど固いのなら、俺がとやかく言う資格はなさそうだ。だけどひとつだけ言っておくことがある」
君は言葉を発する代わりに、もう一度片眉を動かした。
俺はそれを見つめながら笑って言う。
「結婚式のときだけは赤毛に戻せよ。俺が好きになった君の色だから」

君が情けない顔をして、唇だけでoh,babyと呟いた。

2007年06月04日(月)
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