たりたの日記
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2006年07月03日(月) Nさんの作品「エチオピアで泣く権利」を読んだ。

Nさんは築地の魚河岸で働いている。
作品も、魚河岸で働くNさんの日々から、またNさんの踏みしめた外国の土地や人の出会いから生まれたものだ。Nさんの作品にはわたしの知らない、密度の濃い世界が描かれていて、その度に人間の生きる世界の広さ、多様さのようなものを感じる。人間の奥行きの深さもまた。


この日、正津勉文学ゼミでは、仲間のNさんの作品「エチオピアで泣く権利」を読んだ。
今回の作品は、Nさんが戦争の写真を撮るべくソマリアに行き、そこでの出来事、出会った人々との交流など、貴重な体験に基づく作品だった。
ソマリアを知らないわたしなどは、その小説に出てくるエピソードや場面のひとつひとつが新鮮でおもしろく、これは70枚の小説としてひとつにまとめられるのはもったいないという印象を持った。というのも数行で語られている事柄が、すでにひとつの物語として独立し得る萌芽を孕んでいるからだ。

その数数の出来事や描かれた人々の中で、とりわけわたしが印象深く感じたのは、<私>と裸足の少年との出会いだった。
この、特別な、出会い―
もしかすると、Nさんは何よりもこの一人の人間との出会いの事をいちばん、書きたかったのではないかと思った。

ソマリアの地で出会った美しい瞳の小さな裸足の少年。
少年は手を差し出す。しかしその手は物乞いの手ではない。空に向かって垂直に向けられていた手を<私>は握る。少年はその手を強く握り返し、少年と、<私>は見つめあい、微笑みあう。その時、<私>の心に起こった出来事をNさんはこう表現している。

<そのとき、体温を超える、長いこと忘れていた温度の血液が私の体内を流れたような気がする>と。

このNさんの描写を読んだ時、わたしの体内にも、温度の高い血液が流れるのを感じた。その場に読む者を立ち合わせてくれたのである。
生きた、それこそ、血の流れている表現だと思った。

けれど、この感覚、その少年と並んで歩く時の幸福感・・・このことをわたしも確かにどこかで体験していると思った。具体的な事柄は思い出せないのだが、一瞬にして流れ合う何か、そこに生まれる至福の感覚が蘇ってくる。

あっ、と思った。
イエス―
イエスに対面している時のあの気分に似ている。
聖書の中で、夢の中で、あるいは日常の生活の中で、キリストと出会う瞬間のあの気分に。
それはNさんの体験のように、小さな子どもだったり、また痴呆の老人であったりもする。その人内側からのぞいているイエスの場合もあれば、文学作品の中での出会いもある。
Nさんと少年との間に流れあうものの中に、わたしはイエスの世界を思った。


人はなぜ書こうとするのだろう。

Nさんが飲み会の時にこんな事を言っていた。
作家によっては書くのが楽しくてたまらないと言う人がいるけれど、自分は書くことは楽しい行為じゃない。苦しいし、書くことのストレスで吐いてしまう。それでも書けと自分の背中を押すものがあって、書かざるを得ない。書かなくてよければ、どんなに楽しく、楽になるだろうと。

その話を聞きながら、この人は書くという命題を与えられた表現者なのだと思った。彼しか書けないこと、彼が書くべきことがそこに横たわっていて、生まれ出る時を待っているのだろうと。

夕鶴が夜な夜な、自分の羽を一枚一枚、くちばしで抜きながら、血を流しつつ、自分の身を痛めつつ織り上げる世の中にはない美しい織物を織ってゆく姿を思い浮かべる。

今頃、魚河岸の夜中の仕事から戻ってきたNさんは一人、陽の射さない部屋で
あの少年の物語を書いているのだろうか。

産みの苦しみの中で創造し続ける仲間へ心からの声援を送る。





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