たりたの日記
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2006年06月25日(日) たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても

だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

<コリントの信徒への手紙二 4章より> 



主日

教会学校のお話の担当、歌の集いのリード、聖書朗読。

毎日曜日、聖書は旧約聖書からと使徒書からと福音書から、三箇所の聖書が朗読される。
今日、読んだ使徒書は、使徒パウロがコリントの教会の人達に出した手紙の中から4章の7節から18節まで。

この箇所は、わたしが中学生の頃から好きな箇所。
いくつもの名言、忘れ難いフレーズがちりばめられている。
そして、この土の器が若い頃のそれとは違い、衰えていくことを感じ始めている今は、なおいっそう、このパウロの語りかけに力を得る。
この言葉そのものが、古びることなく、日々新たに光を放っているように感じる。

土曜日、友人を見舞った。
元気そうな人だっただけに、突然の入院は大きな驚きだった。
闘病が始まる。
途方に暮れても失望しない強いものを彼女の中に見て
見舞ったわたしが力を得たのだった。
見えないものに目を注いできたからなのだろう。
自分を計算に入れず、他者に仕える事を実践してきたからなのだろう。
壊れそうな土の器に入れられた宝は輝いていた。
わたしができる事はなんでもしようと思った。

               
               *


   < コリントの信徒への手紙二 4章7〜18 >


ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。
この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、
途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、
打ち倒されても滅ぼされない。

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、
イエスの命がこの体に現れるために。

わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

こうして、わたしたちの内には死が働き、
あなたがたの内には命が働いていることになります。

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、
それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、
あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。




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