たりたの日記
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2006年05月29日(月) 27年前のユリイカ―特集サリンジャー



先月の27日の日記に「シーモアを尋ねて」というタイトルで日記を書いた。その中に、1979年の「ユリイカ」に掲載された野呂芳男氏のサリンジャーの宗教的世界」の全文をリンクしたが、そのサリンジャーを特集し「ユリイカ」をどうにかして読みたいものだと思っていたら、ゼミのS先生が持っていらしてお借りすることができた。
この雑誌のはじめの部分には先生の小詩集も収められていた。

1979年出版。わたしが23歳の時。あの時、サリンジャーをなぜ読むチャンスに恵まれなかったのか、「ユリイカ」は時々本屋で立ち読みしていたのに、なぜこのユリイカには出会わなかったのか、それならなぜ今頃になってサリンジャー漬けになっているのか・・・
サリンジャーを読んでいると、20代の時に出会うべき本だったという気がしきりにするのだが、その時はまだ時が熟していなかったのだろう。

そういったこもごもの感慨を一方で抱きつつ、ここのところ、この論文集を読み耽っている。
最も共感を覚えたのはデヴイッド・D・ギャロウェイ氏の「愛の倫理」という論文だった。もう少し読み深めをしたいので、コピーを取ることにしよう。
一時期、ユング心理学に関する本を集中して読んでいた時期に秋山さと子氏の著作も愛読していたが、彼女がこの特集の中で書いている「サリンジャー・禅・ユング」は興味深かった。
また八木誠一著「宗教と文学の結合と対立」も納得がいった。

この本は付箋だらけになってしまった。心に留めていたい文章や考えてみたい内容がたくさんあって、この本がもう手に入らないのは何とも残念だ。
八木誠一氏の論文の最後の文章を書き残しておこう。

<恐らく最ものぞましいのは、前述の芭蕉の句(山路来て何やらゆかし菫草)や、ドストエフスキーが一草一本にキリストが宿っているのを見るといった感覚を恢復することではあろう。日常的現実のまま、無限の深さを開示する立場の恢復であろう。しかしこの方向への限定は、やはり先程も述べたように、文学的可能性の不当な限局であろう。文学と宗教は古来反目したり手をつないだりして来た。この意味では私はやはりサリンジャーの世界にポジティブな面を認めておきたいと思う。>


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