たりたの日記
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| 2006年05月22日(月) |
坂口安吾著 「桜の森の満開の下」を読む |
昨年の5月30日、ゼミにオレンジ色のレインコートを着てでかけた日、あの日は雨が降っていて坂口安吾の「私は海をだきしめていたい」がテキストだった。あの時期、わたしはかなり安吾にのぼせていたから、学びの席のディスカッションがいたたまれず、帰りの電車の中ではひたすら物寂しかったのだ。 オレンジ色のコートの中にしっぽをしまって(2005年05月30日の日記)
一年振りに安吾を読む。 時が流れて、あの時の熱っぽさは醒めたものの、すっかり馴染みの友だちのように安吾の魂は心に近く、わたしは読みながらしばしば虚空へ向かって、そこにいるであろう安吾に話しかけた。
あの時期、全集を読み続けていたので、今回のテキスト「桜の森の満開の下」も読んでいたが、美しい女が生首を並べて遊ぶという場面しか覚えておらず、特に心に響いたものを記憶していない。それほど難しい作品だとは思わず再読をしていったが、読むほどに先が広がり、思いの他、深いところへ連れていかれたように思う。
世界中の昔話が総じてそうであるように、昔話の形式を取るこの物語にも、ユングの言うところの、アーキタイプ(元型)や深層の心理を見出すことができる。 男と女の支配と従属の力関係や、人間が根本に持つ残忍性の問題をここから読み取り、考えてゆく作業も面白いと思うが、わたしはここでは、男と桜の森とのかかわりに眼を据えて、この男の魂の旅、スピリチュアル・ジャーニーを追ってみたいと思う。
この主人公の男、怖いもの知らずの山賊が唯一怖れているのは、鈴鹿山の満開の桜だった。桜の花の下に来ると怖ろしくなって気が変になるのだが、どうしてそうなるのか考えようと思いつつも10年の間、その課題をそのままにしていた。ところが8番目にさらってきた美しい女に出会うことで男の内面に変化が起こる。この美しい女房は、我侭で所有欲が強く、幼児性と残虐性を持ち、男を翻弄する。男は女の命じるままに6人の女房を殺し、女の姿や女の持ち物の美しさに心を動かされつつ、一方で自分の知らない世界である都を恐れる。
それまでエデンの園のような山の中で、何も疑いを持たず自分に充足していた男が、この女と会うことで、禁断の果実を食べたアダムのように、生きることにも、周囲の存在にも、怖れを感じ、自分の足元が揺らぐのを感じるのだ。そして、男は今年こそは桜の森の満開の下に、座らなければならないと、その事を約束のように心に強く感じる。
男の桜の森の満開の下への執着は何であろう。 桜の森の満開の下こそが、物事の本質を明らかにするところであることに男の潜在意識は気がついているのだろう。とにかく揺れ動く自分自身を立たせるためにそこに座らなければならないと強く思っているのだ。しかし男はそれを試みるも、そこに<今までに覚えのない鋭さで頭を斬る>女の苦笑を思い出し、虚空におののき、祈り、もがき、息も絶え絶えに逃げ出す。ここで男は魂の救いを求めるものの、その求道は挫折する。
そこから男は女の意を汲み、平和な山を離れ都へ行く。女は人間の首を欲してはそれを慰みものにする。男は果ての無い女の欲望に翻弄され、その要求のままに人間の首切りを続ける。まさに地獄のような人の残虐さがひしめくような場面に身を置くのだが、男はこのような生活の中で自分であることに充足することができなくなる。<退屈に苦しみ>、女を殺すことを思い、<あらゆる想念が捉えがたいもの>となり、苦痛を味わう。男は魂の危機的状況に直面することになるのだ。
男は自分の魂を救う方法として山へ戻ることに気が付き、女を説得して山へ戻ろうとする。 男は女を背負い、その幸福につつまれて、桜の森の満開の下を通るのだが、男が怖れていなかったにもかかわらず、いえ、怖れていなかったからこそ、桜の森の満開の下で男は真実に目覚めることになる。背中に負ぶった女は鬼だった。男は夢中でのどに食い込む鬼の手を解き、鬼に組みつき、その首を絞める。ところが、その鬼は女の姿をしており、男は息絶えている女の屍の上に泣き伏すのだ。 この鬼との格闘は、男が自分をがんじがらめにしていた虚無、あるいは悪魔的なもの、魂の死に至らせるものとの対決を象徴しているように思う。ものごとの本質がようやく見えた眼で、男は逃げ出すことなく立ち向かい組み伏したのだ。
男はもはや桜の森の満開の下が怖くはなかった。いつまでも座っていられるような気持ちになった。花の下には<無限の虚空>があって、それだけだった。そして男はそこに<ほのあたたかいふくらみ>を覚え、自分自身の<胸の悲しみ>でもある、そのあたたかさに満たされ、女と共に花びらの中に掻き消えてゆく。 悪魔的なものと対決を果たした男は、ここで、虚空を怖れるのではなく、自らもまたいっさいの空の中にあることを受け入れ、はじめてそこに充足することができた。これがひとつの悟りの境地とは言えないだろうか。
この男の心の旅を振り返って、昨年のテキストだった安吾の「私は海をだきしめていたい」の冒頭の部分を思い起こした。 <私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落ち付いていられるくせに、神様の国を忘れるということが出来ないという人間だ。・・・>
この独白と「桜の森の満開の下」の山賊が重なり合う。この平安絵巻のような美しくも残酷な世界には、確かに、安吾の言う神様の国、天国と地獄とが交錯する。山賊は天国を意識しつつも地獄の中に身を置き、その中にあっても天国の価値を忘れずに、魂の救いを求めて旅を決意する。 都からふるさとに戻る途中の桜の森の満開の下で男は最後の地獄の門を潜り抜け、天国へ至ったのではないだろうか。
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