たりたの日記
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2006年01月15日(日) イエスもまた洗礼を受けた

 今日は主の洗礼日。

イエス・キリストがバプテスマのヨハネより洗礼を受けたことを記念する主日。

この日、教会学校のお話の担当。

30歳くらいまで、ガリラヤのナザレという小さな村で、大工の父親に見習い、大工として生きてきたイエスがいよいよ神の言葉を述べ伝える人生へと入ってゆく。親兄弟の元を出て、イエスが一番はじめに訪れたのは、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたバプテスマのヨハネのところだった。

ヨハネは群集の中に混じったイエスが自分から洗礼を受けようとすることにひどくうろたえ、むしろわたしがあなたから洗礼を受けるべきなのにと言う。それに対して、イエスは今は止めないでほしい。このことは正しいことなのだからと説得し洗礼を受ける。

イエスが洗礼を受けると天が裂け、聖霊が鳩のように降りてきてイエスにとどまるのをイエスご自身が見る。また天からの声も聞こえた。
それは
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声。

ここからイエスの公生涯は始まる。
3年間という短い間。十字架へ至る道行。
しかしその3年間で彼は世界を変えた。今もなお変え続ける。
はじまりであり終わりであるイエス。


< 絵について>

Piero della Francesca ( 1410/20-92)の作品
1442年
Tempera on panel、167 x 116 cm
National Gallery, London



<マルコによる福音書 1:9−11>


そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



イザヤ書 42:1-7


見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。

彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。

暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。

主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、
その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。





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