たりたの日記
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2006年01月09日(月) |
走りたい! <③民芸品の天使> |
この日、ジムではスタジオのレッスンを受けずにランニングマシーンで走った。今年に入ってから走るのは2回目。走る時の快感が戻ってきたことがうれしい。 この1年、ほとんど走らなかったが、今年はまた走り始めようと思っている。
覚えていらっしゃる方もいるだろうが、確か3年前の今頃、新年の抱負で今年ホノルルマラソンに出る!と日記に宣言してしまった。しかし、ほどなく挫折。ホノルルマラソンの開催される12月のはじめの日曜日など、仕事でも教会でも休みが取れるはずもなく、また経済的にも実家に帰省する費用を捻出するのが精一杯。大学生を2人抱える身にはそもそも無謀な抱負にちがいなかった。 しかし、それを理由に走ることも止めてしまったのは、わたしが単に根性なしだったからだ。 今度もいったいどれほど続くかはなはだ怪しいものだが、少なくともここに宣言しておいて、週に一、二度は走りたいと思っている。
ちょうど走ることを考えていた時、大塚山行きで、毎日ジョギングをしているというNさんに再会した。彼女は夕食の後、夜9時とか10時とかいった時間に1時間ばかり外を、それも一人で走るというのだ。その時間はわたしは同居人とジムで運動しているか、そうでなければ、焼酎を飲みながらパソコンに向かっている時間だ。どうして、寒い戸外に一人で、日々出てゆくことができるんだろうと感心する。すると彼女は、だって走るのが好きなんだもの。走りたいから走るわけで、何も大変なことをしてるんじゃないとおっしゃる。なるほどね・・・
一方彼女は彼女で、たりたさんはあんなに長い文をよく毎日書けるねと、理解に窮するといった面持ち。 「書くことで気持ちが開放されるのよ。書きたいから書くわけで、何も努力はしていないの。きっとわたしの日記書きがあなたのジョギングなのよ。」と言うと、彼女はいたく納得した様子で、他の人に「わたしのジョギングはたりたさんのブログなのよ」と他の人に説明しているのが聞こえてきた。
実際そうだ。 日記を書くことで何かを開放させているものが確かにある。わたしは話をすることで開放されることはまずない。人との接触の中で無意識にも心の中に押さえ込んでいることが多々あるんだろう。わたしにとって書くことは、そういうものを開放してやる行為なのかもしれない。 無心で走ると、頭の中に何も無くなってくよくよ考えることがなくなるとNさんは言うが、走ることで得る充実感とわたしが書くことは良く似ているように思う。
さて、走ることでもそれを得たいと思うのは欲張りなことかもしれないが、人生は短い。心が向かう事ならどんな事でもまずはやってみよう。
さて、10時過ぎ、Nさんは今も一人走っているのだろうか。 走りたい気持ちはやまやまだけれど、わたしは夜道はやっぱり苦手だな。犬が近づいてきたら失神しそうにビビるのだもの。その前にもうお酒飲んでるし・・・ よし!明日の朝。・・・いやぁ、どうだろう。寒い朝もめげるんだろうな。
我が家の天使たちの紹介、その3<民芸品の天使>
この天使はアメリカを去る時、同居人の幼馴染で家族で付き合いのあったバージニアに住むBethからもらったもの。 一見、スェーデンのわら細工のクリスマスオーナメントに似ているが、素材はもっと硬く、細い繊維質のもの。そういえば、以前ここでしょうかいしたティナラク織りの素材になる植物繊維によく似ている。この天使の素朴な味わいが好きで、クリスマスに限らず、一年中、ドアの一番上に飾っている。
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