たりたの日記
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2005年08月08日(月) |
白石かずこ著 「わたしの中のカルメン」を読む |
わたしはゆくゆく、巫女的女性と縁がある。 わたしが巫女的であるかといえば、それほどのパワーはなく、ぽわぽわと頼りないが、巫女的資質を持つ女達が好きだし、気が合うと感じる。 わたしの信奉するミュージシャン、ビョークはまさにそれ。 最近で出会った作家、冨岡多恵子、尾崎翠、武田百合子、わたしに言わせればみな巫女的。
で、つい先ごろ、新たなる巫女的女性に会い、その女性からやってきたエネルギーがまだわたしの内で熱い。 詩人、白石かずこ、その人。
白石かずこのエッセイ集「わたしの中のカルメン」を夫の実家の書棚に見つけた。 光りの射さない部屋の片隅に、忘れ去られた本達がひっそりと眠る書架があり、その中にこの本を見つけたのだ。昭和44年の初版本。 わたしが15歳の時だ。いったい誰が買ったのだろう。夫ではないというから、わたし達より2歳年上の義姉が買ったものなのかもしれない。
わたしは見知った詩人の名前を書架の中に見つけ、さらにはそのタイトルに惹かれ、その本をそこから連れ出すことに決めた。そしてそれは全く正解だった。帰りの飛行機と電車の中、わたしはその本にどっぷりと浸り、気がつかない内に家についていたというくらいに没頭した。
白石かずこがコルトレーンのことなどを書いていて、ジャズを語る詩人ということで、興味を覚え詩も読んだが、吉原幸子や、茨木のりこほどは心惹かれなかったのだ。 彼女のあまりの力強さ、元気のよさのせいだったかも知れない。70歳、80歳まで生きなければ詩人とは言えないといった彼女の言葉に今でこそ共感するものの、若い頃には自分とは遠い人という印象だった。
そういう意味では「時」がやってきて、初めてこの詩人と対面したのだ。 彼女が豪語した通り、彼女は74歳の今も詩人を生きており、朗読会など、アクティブに活動を続けていらっしゃるもよう。 74歳、わが母や義母と同年代ということに驚きを覚える。
さて、この本のことを書きたいともう一度、ページをめくるのだが、どこも、ここも気に入っているので、どこを取上げようもないのだが、いくつか試みてみよう。
<流浪者になること> より わたしは10代の終わりから、魂がジプシーの仲間に入った。 それは、人生の美味しさ探求への武者修行だったのである。 男なら宮本武蔵とか柳生十兵衛とかいうところだが、女なのでカルメンとでも言おう。カルメンは女の流浪者だから。
<狂気の季節> より
それにしても、私は、その狂気に近いデモニッシュな、生への手さぐりの精神を、一生じゅう、恋のように憧憬し、求めるであろう。 それが詩人の魂だからである。別ないい方をすれば、詩人は青春という狂気を魂に点火したまま、一生をおくる人間のことかもしれない。
<詩における性のイメージ>より
非常に長生きをしたい。つまり、どうしても70歳や80歳まで生きて、人生の夕日を見たいと思うのは、性で出発した人間として性の終焉のけしきをながめなければ、詩人としての私の仕事も中途半端、ほんとうに性と詩のまったきかかわりあいを、end of the life までしてこそ、詩も、私も、満足というものである。
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白石かずこ著、「わたしの中のカルメン」について 発売前後に読売文学賞、高見順賞をダブル受賞。白石コーナーが出現するほどの話題になった。詩人の青春グラフティーともいうべき、60年代を語るパワフルなエッセイ集。
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