たりたの日記
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2005年06月22日(水) 雨の音の中で目覚めた朝

目覚めると雨の音。瞬間、雨がうれしいと思った。その激しい雨音を心地よく感じる自分の心を少しいぶかる・・・植物が雨を求めていたように、わたしは土砂降りの雨を望んでいたというのだろうか。

水曜日は仕事に出かける日なので、この日の雨は決してありがたくない。けれども、目覚めたばかりのぼんやりした頭は傘をさして駅まで歩く自分を思い浮かべ、それすら心地よく感じていた。

どうしてだろう。内側へ向かいたい、ひとりで静まりたい気持ちが起こっているのだろう。そう、ダンスの事や山の事、心も身体も外へ外へと向かっていく時間が多かったから。とりわけ昨日は4クラスの仕事で、合計26人の生徒を教えたからかな。学校の先生なんかだとこれが毎日続くのに、甘いね、自分。

身体の疲れとは無関係に心の疲れというものがある。その心の疲れにしてもいくつも枝分かれしている。人的環境、仕事や役割から来るストレスなどは分かりやすいが、これと言って何も思い当たることはないのに、心に何かしら重い雲のようなものが立ち込めることがあるものだ。しかし、それすら、ゆっくりと紐解いていけば、何かしら心配や不安の種のようなものが見つかる。そんな時はその種を育つに任せず、まだ双葉くらいの時に上手く抜いてやることも大切だ。



ここ数日間、一人暮らしをしている夫とわたしの母のことを考えていた。子ども達を育て、社会の中での仕事をこなし、その成長を楽しみにしてきた孫も成長してしまった。配偶者を看病し、また見送り、そしてやってくる自分だけの時間。長い一日。

70代半ばの親達は、人生のステージからすれば冬の章、最終章を生きている。老いだけは誰にでも平等にやってくるのだから、そうしてわたしももうじき、夏の章を閉じ、秋へと移行する。夏の終わりに感じる寂寥感をふと思う。

二人の母達の心の内は実際のところ知ることはできない。わたしの母などは、日に何人もから電話があり、日に何人もの人が玄関先に現れ、わたしなどよりもよほど心忙しく暮らしているのかもしれない。夫の母にしても、週に2回のデイケアを楽しみ、新聞もテレビもすみずみまで把握し、社会の様子などわたしの100倍は把握しているのだろう。いくら冬の章とはいっても明るさや賑やかさはそこにあるのだろう。

それでも、老いは確実に増し、様々な身体の機能が衰え、次第に自分ひとりで生活する事に不安を覚えるようになる。二人の母達はそれを口にしたりはしないが、加齢に伴う不自由さは、すでに老眼が始っているわたしにも容易に想像がつく。老いを生きるという事は、何と大変なことだろうか。


秋には秋の、冬には冬の過ごし方がある。自分達の老い支度のことも頭に入れながら、加齢の進む親達をどう支えていくか、その事から目をそらさないで具体的な計画をしていく時期にきているのかもしれないと思う。


たりたくみ |MAILHomePage

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