たりたの日記
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2005年03月20日(日) |
教会学校でのお話 「君もそこにいたのか」 |
来週は何の日ですか? そうですね。イースターです。イースターにはどんなことをするの? そう、きれいな色や絵がついたイースターエッグを見つけるイースターエッグハントをしたり、礼拝の後で、みんなでポットラックのパーティーをしたりするんでしたね。
それじゃあ、今日は何の日でしょう? 今日は枝の主日、また受難主日と呼ばれる日です。なぜ枝の主日というかといえば、イエスさまが十字架にかかる前に小さなロバの背中に載ってエルサレムの町に入ってきたのですが、その時みんなは、イエスさまをお迎えするために、手に棕櫚の枝を持ってホサナホサナと言いながら、イエスさまを大歓迎したのです。さっき歌ったダビデの子ホサナよと言う歌はその時の事を歌った歌です。
では受難主日の受難ってどういう意味でしょうね。誰か知っている人がいますか? 英語ではパッションといいます。イエスさまが十字架の上で苦しみを受けられたことを受難、パッションと言うのです。
でも変ですね。同じ日曜日にイエスさまをお迎えするうれしい日の名前と、イエスさまの十字架の苦しみを覚える日の名前があるのですから。 どうしてかと言えば、イエス様はエルサレムにいらした時にはみんなが、イエス様を大歓迎したのに、何日も経たないうちに、同じ人達がイエスさまを十字架にかけろと叫び出したのです。弟子たちもそうでした。それまでイエスさまの側にいて、いろいろなお話を聞き、イエスさまのお手伝いをしていたイスカリオテのユダは、イエスさまを捕まえようとしている人達に、あそこにイエス様がいるよと告げ口して、そのお礼にお金をもらったのです。それだけではありません。弟子のペテロは、「たとえ、みんながあなたから去っていっても、わたしはそんなことはありません」と言いました。ところがイエスさまが兵隊たちに捕まえられてしまうと、弟子たちはこわくなってみんな逃げていってしまいました。わたしだけは逃げませんと言っていたペテロも、「あなたはあのイエスの弟子でしょう」と人から言われると、怖くなってしまって、「そんな人は知らない」と3度も言ったのです。その後に鶏が鳴きました。イエスさまは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないというだろう」とおっしゃっていたのです。鶏が鳴いた時、ペテロさんはイエスさまの言葉を思い出しました。ペテロはどういう気持ちだったでしょう。イエスの言葉を思い出して激しく泣いたと聖書には書いてあります。
イエスを十字架につけろと叫ぶ声の中でイエスさまは祈りました。 「神様、わたしを十字架にかける人をゆるしてください。この人たちは自分が何をしているのか分かっていないのです。」と イエスさまは、たった一人で十字架の上で苦しみを受け、血を流し、死んだのでした。
いったい誰がイエスさまを十字架にかけたのでしょうか。イエスさまを憎んでいた祭司や律法学者たちでしょうかイエスさまを銀貨30枚で売ったユダでしょうか、イエスさまを3度知らないといったペテロや逃げていった弟子たちでしょうか、ホサナホサナと喜んで迎えたすぐ後に十字架にかけろと叫んだエルサレムの人達でしょうか、イエスをとらえたローマの兵隊たちでしょうか、それとも死刑を言い渡したポンテオピラトでしょうか。
黒人霊歌の中に「あなたも見ていたのか」という歌があります。黒人霊歌というのは、アフリカからアメリカに奴隷として連れてこれらた黒人の人達がつらい奴隷としての生活の中で、歌って、伝えていった民謡のような歌です。 その歌はこんな風に歌っています。
<君もそこにいたのか> 聖歌400番
君もそこに居たのか 主が十字架に付くとき ああ なんだか心が震(ふる)える 震える 震える 君もそこに居たのか
この「君」というのは、だれのことでしょう。あの時、イエスを十字架につけた人たちのことでしょうか。いいえ、違います。ここにいるわたし達ひとりひとりに、「君もそこにいたのか」と呼びかけているのです。あなたもわたしも、イエスさまが十字架にかかる時、その場所にいて見ていたのですよ。わたしたちの罪がイエスを十字架につけたのですよ。と歌っているのです。
では、イエスさまを十字架につけてしまったわたしたちは神様の罰を受けるのでしょうか。 いいえ、その反対です。わたしたちはイエスさまの十字架の下にいて、この罪を赦されるのです。なぜなら、イエスさまがわたし達が受けなければならない罰を、たったひとりで引き受けてくれたからです。わたしたちはわたしたちの代わりに十字架の上で死んでくださったイエスさまを見ているひとりひとりなのです。 この1週間、わたしたち一人一人がイエスさまの十字架の下にいることを思って過ごしましょう。
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