たりたの日記
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| 2005年02月28日(月) |
人間が本質的に持つ「破れ」 |
「孫含む家族5人殺害」の事件、新聞で読んだだけで、TVなどの報道番組は見ていない。しかしこの事件の持つ意味は深いと思う。ひとりの人間の犯した過ちで、またひとつの家族の悲劇だが、それはある意味でわたし達ひとりひとりが持つ「破れ」であり、どの家族にもまた社会にも潜む「破れ」という気がする。
社会的に模範的な人、命の大切さを説いていた人が今までの生き方を裏切るような行為に及んだそこにあるものを他人事としてではなく、わたしたちの問題として捉え、考えるべきだと思う。
ここ2週間ばかり、カフカの「判決」に見る父親と息子の間にある葛藤について思いを巡らせていた。それはまた母と娘の問題。わたし自身の家族同士の関係やわたしと親との関係にもそのままかかわってくる。決して他人事ではないと読みながら感じていた。
父親は息子に「・・・わしのいうことを聞け。わたしは今、お前に溺死するように宣告する!」と言う。そして息子はそれに従う。しかし、父親も息子も共に「愛していた」と告白しているのだ。
今日のこの一家心中を計った父親も家族を愛していたのだろう。そしてまた殺された家族も。 最も身近にいて、最も愛する人間をすら人間は傷つけ得る、殺し得るという事実。
そこに向かい合う合う時にわたしたちが知らなければならないのは、人間が本質的に避け難く持っている原罪の問題なのではないだろうか。 自分自身の内に罪を認めるということ、自分自身もまた殺し得る人間であるということを知ることから始まる何かがあるのではないだろうか。
自分が内に持つ「破れ」、罪に対して決して無防備であってはならないと思う。
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