たりたの日記
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| 2005年01月17日(月) |
吉田健一著 「酒宴」を読む |
今日は正津氏の文学ゼミだった。英語教室の仕事が6時までなので、それからそのまま駅へ直行し電車を乗り継ぎ都電で早稲田まで。会場に着いたのは7時50分頃になっていた。ゼミは7時からなので、講義がほとんど終わる頃に滑り込む形で、なんとも残念。けれど、メンバーの方々の感想や意見はやはりおおもしろく、また二次会の会場へ向かう道々、先生から講義の内容を伺う事ができて幸いだった。二人の若いライターの方からそれぞれの作品(日記と小説)をお借りできたことも良かった。次回のテキスト(田中小実昌著「ジョーシキ」)とともに、明日からじっくり読むとしよう。
ところで今日のゼミのために書いた感想文は、何か読み上げる気になれず、そのまま持ち帰ってしまった。 こうして一人で書くと言葉は自由に出て来るのに、人を前にすると途端に言葉が滞る。書いたものを読めば、話す訓練にもならないから読まずに話そうとしたが、ちっとも思ったことが話せない。何か、自分を不自由にしているブロックがあるのだろうな。そういうものと向かい合う意味でも、こうした学びの場に出かけてゆくことは大切なことなんだろう。 感想文はここに貼り付けておくとしよう。
< 吉田健一著 「酒宴」を読む >
自分とはまるで縁がない世界の事がとても魅力的な文章で表わされているとして、それまではとてもその世界へ入って行けなかったというのに、まるで暗示にかかったように、ふらふらとそのものに捕えられてしまうということがあるものだ。 これまでもそんな物事や人との接触があったような気がするが今度はなんと酒。この齢まであまり縁がなかった酒というものにうっかり捕えられてしまったらしい。それが今だけのマイブームなのか、それともこれからずっと生活の中に入り込んでくるのかそれは分からないが、ともかくも正月からこっち、私の一番の関心事は酒(焼酎)なのである。 棚には芋焼酎だの麦焼酎だのが5本も並び、テーブルの上には、アマゾンでおもわず衝動買いした、ソムリエの田崎真也さんが書いた焼酎の本や、イラストレーターの大田垣晴子さんが描いた焼酎をめぐる旅絵日記など、焼酎関連の本が何冊も積まれている。スーパーやコンビニに言っても、まず酒売り場にふらふらと引き寄せられ、どんな焼酎が並べられているのかチェックしないではおられないといった有様。
酒には縁がなかった、というより、わたしの身体はアルコール分解酵素がうまく働かず飲めない性質なのだった。ところが一度心を開けば、身体の方も方針を変えるのか、はたまたアルコールがいじわるをしなくなるのか、ここのところ酒は身体に入ってもパニックを起すことなく、非常に機嫌よく血液の中を循環するようなのである。この前までは酒を飲めば、頭といわず、手足といわず、まるで身体中が心臓になったように激しく動悸した。あれは全く不気味な気持ちにさせられる。このまま心臓が停止してしまうのではないかと思われるほどの反乱ぶり。ところがどういう具合にかあの不快さがやってこない。吉田健一氏の「酒宴」の文章に見るような夢ごこちがそのままにわたしにも訪れたのだから、これはしめたと調子づいてもいるのだ。
<・・・飲んでいるうちにお風呂にでも入っているような気持ちになってくる。自分の廻りにあるものはお膳でも、火鉢でも、手を突き出せば向こうまで通りさうに思われて、その自分までが空気と同じく四方に拡がる感じになり、春風が吹いて来るのと一つになった酔い心地なのである>
そうそう、この感じ、とわたしはにんまりする。数週間前までは、この文章の意味する感覚がさっぱり分からなかったものの、自分の身体で体験してみると、なるほど、その通り、うまい表現だなあと感心する。 世の中には酒とのさまざまなつきあい方があって、遠目からそれを眺めてはいたが、そこに近づいてみたいという気は起こらなかった。それというのも、そこには何か不安な要素が感じられて、危うきには近づかずといった用心深さが先立った。ところがこの小説の酒の世界はなんとも安全で屈託がなく、うっかり近づいてしまったというわけだ。安全とわたしが思ったのは、酒をよく手なずけているというか、酒からの逆襲もなければ、裏切りもなく、酒と良い友情を結んでいるような平和があり、それで私の方まで警戒を解いてしまった。
<酒飲みというのはいつまでも酒を飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか原稿を書かなければならないから止めるなどといふのは決して本心ではない。理想は朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、といふのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの、生活の営みはその間止まっていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変わって少し縁側から中に入って厚さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色の中に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向かって飲み、さうかうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛かっているのに気づき、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言ふのが、酒を飲むといふことであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている>
とりわけ、この部分が気に入った。 このうっとりとするような、ゆるやかにたゆとう時間の流れはなんだろう。そういえば昔、漢文の授業の杜甫や李白の詩に、このように流れていく時を味わったように思う。まだ未成年の時分だったから、酒はさらに遠い世界の事だったが…。 酒は時間の中に入り込んできて、その時間の流れを、また質を変えるものでもあるのだろう。
後半の酒宴に集う人間たちがみな酒を貯蔵するタンクになってしまい、自分は途方もなく大きな蛇に変身する部分など、そのファンタジーの表現の中に、時間や空間の質を変える酒への愛着、また現実の中に起こるファンタジーへの愛着を感じる。 ここで トルーキンやCS・ルイスやエンデを持ち出すのもおかしいかもしれないが、明治生まれの日本の作家の中に、イギリスやドイツのファンタジーの匂いを嗅いだような気がした。作家が幼少時代を海外で過ごしたこととも関係があるのかもしれない。
吉田氏の西洋哲学への視点、とりわけ時間への考察に興味を覚え、晩年の代表作であるらしい「時間」を取り寄せて読んでみた。 「酒宴」のように、文章自体が気持ちよく酔っぱらっていて、ほわりと弛緩させるような作品とは違って、こちらはまあ小難しい。しかしながら、良くは分からなくてもそこで語られていることは聞く価値のあることに違いないと耳を傾ける講義を聞くような調子で、その本にそれなりに興味深く向かいあった。その哲学的な内容はさて置き、様々な世界を掌握しているような広さと屈託のなさとがやはり心地よいと思ったのだ。
ともかくも「酒宴」がきっかけで新しい年に新しいことが始まっている。
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