たりたの日記
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| 2004年12月15日(水) |
キリスト者とアナキスト |
わたしのサイトも、またこの日記もそうだけれど、わたしは自分がキリスト教の洗礼を受けている者ということを明らかにしているが、いわゆるクリスチャンの仲間内で物を言ったり書いたりというスタンスは取っていない。かといって、「未信者」を対象に「伝道」を目的に書くなどという大それたことを考えているわけでもない。
それなのに、けっこう聖書のことやイエスの事を書く。それはなぜか。わたしは書くということにおいては精一杯、正直でありたいと思う。嘘偽りのないわたし、いわば裸のわたしになれるからこそ、書くことの中に慰めがあるのだし、またそこのところで読んで下さる人と繋がっていればいい。だから、心の真ん中のところに聖書の言葉やイエスの存在があるなら、それを避けることは嘘になってしまう。
先日のBゼミの二次会で、キリスト者とアナキストの話題が出た。というのもその場にアナキストと言われているKさんがいて、キリスト者(洗礼を受けて、教会へ行っているという意味で)のわたしがいたからだが。
「わたしはキリストは好きなのよ。でも教会とか教義とかは嫌い。」「キリストを信じるというなら、何もかも投げ出して、徹底してキリストを模倣しなくちゃいけないんじゃないの。」「キリストは革命家だったと思う。」 教会の中では決して聞かれることのない一連の意見を聞きながら、わたしもそう思っていると思った。しかし、生ぬるく、教会の組織の中にいる我が身を振り返れば、いくら心ではそう思っていたとしても、その言葉にただうなだれるのみだ。
わたしはイエスはある意味でアナキストだと思っているし、国家権力や、階級と真っ向から立ち向かい、徹底的に神の前にただ独りで立つという人間の在り方を説いた。そしてわたしは、イエスのその部分に惹かれ、惚れ、自分がそうなれるとは思えなくとも、いわば、そこに賭けている。 ところが今の世の中でキリスト者というイメージは、アナキストとはほど遠い。実際、キリスト者の輪の中にあって、そういう部分で話が通じるのは同居人くらいものだろうか。
日本の場合は、歴史的に、社会主義とキリスト教は決して離反するものではなかった。国家権力におもねることなく、社会の底辺にある人達の事をまず考えようとする理想は双方に共通していたから、大正時代、時代をリードする人達の中には社会主義者であり、またキリスト者でもあるという人が少なからず存在した。そしてわたしはキリスト教とその流れの先の方で出会っている。
一方、アメリカにおいては社会主義者、共産主義者、無政府主義者、どれもひっくるめて、反キリスト教、悪魔的なものと恐れ、教会やクリスチャンからは目の仇にされてきた。そういうアメリカの教団を背景に持つ日本の教会の中には、無意識の内に、その価値観を共有している向きがあることは否めない。 学生の時に洗礼を受けたが、その時すでに、教会やクリスチャンによって大きく異なる社会的な視点や傾向のことは気が付いていた。そしてその時から今まで、教会に属しつつも、教会の持つ社会には違和感を感じ続けてきた。ぴたりと合う場所を求め続けてきたと言ってもいいかもしれない。
居酒屋でその話題の中にあって、わたしは自分自身がずいぶん矛盾した立場にあることを改めて考えていた。イエスのひりひりするような孤独を良しとしながら、権力と真っ向から闘ったイエスを信頼しながら、教会でもまた社会の中でも、いかに皆の中に適応するか、溶け込むかという事にけっこう心を砕いているからだ。
こうして外から教会というものを、キリスト者を見る視線に晒される事は痛いが、必要なことだと思った。 そして、信仰者としてこれほど無力で未熟であるわたしのような者が、恥知らずにもキリストにしがみついていることをあからさまにしていくことも、それなりの意味があるのではないかと思ったのだった。
このことはここで完結するようなものではなく、恐らくわたしの中では課題として広がっていくことだろう。 そもそもこういう場所にわたしが投げ込まれているということ自体、そうした話題を振られるということも、神の配慮の中にあると思えてくる。
今日、同郷のクリスチャンの先輩(ご夫婦でわたし達の結婚の証人になってくれた人だ)で、社会的な活動を続けてきた島田雅美さんから、第16回「多田謡子反権力・人権賞」を受賞したという手紙が届いた。個人としては唯一人の受賞者だということだ。この夏には彼女の記事が載っている「憲法を奪回する人々」(岩波書店・田中伸尚著)という著書もいただいていた。12月18日の午後には総評会館で受賞発表会と、彼女の講演会があるという。 行かなくてはと思っている。
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