たりたの日記
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2004年07月20日(火) |
すきとおったほんとうのたべもの |
今日は「すきとおったたべもの」の事を考えていました。 わたしが集めてきたもの、心を動かされてきたものを、ひとつの言葉で言い表すならば、宮沢賢治の言葉の中に出てくる「すきとおったたべもの」なのだと そんな気がしました。 言葉には言うに言われぬ何かたくさんの事を、そっくりひとつのことがらに統べる力がありますね。 「すきとおったたべもの」という言葉が、ひとつの線になり、ことがらを分けるような気もしました。
そうして、わたしが何かを書くとするならば、ここのところに立つしかないと、新しい気持ちが起こりました。
この「注文の多い料理店 序」は、 もう2年前の日記にそっくり書いたことではあるのですが、あの時とはまた違う気持ちで読んだので、また今日の日記に記しておこうと思います。
< 注文の多い料理店 序 >
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、
ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、
宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、
虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、
十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、
もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、
ただそれっきりのところもあるでしょうが、
わたくしには、そのみわけがよくつきません。
なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、
そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、
おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、
どんなにねがうかわかりません。
大正十二年十二月二十日 宮 澤 賢 治
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