たりたの日記
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2003年07月26日(土) |
「タリタ クミ」 とイエスは少女に呼びかけた |
「タリタ、クミ」イエスは死んでしまった少女にそう呼びかけた。 それは「少女よ、起きなさい」という意味の言葉だと聞いた。イエスが少女にそう呼びかけると少女は起き上がって歩いたのだと。イエスの奇跡物語のひとつである。
その話を聞いたのがいくつの時だったのか、その時どういうことを思ったのかは思い出せない。しかし、イエスが語ったそのアラム語の「タリタ、クミ」という言葉をはっきりと聞いた。心の耳で。しかもそれは、ヤイロの娘への呼びかけではなく、わたし自身への呼びかけだった。その話は遠い国の遥か昔の話ではなく、今まさにわたしの内で起こったのだった。
子どもは無邪気でいい、何の苦労もない、子どもの頃に帰りたい、などどいう人がいると私は耳を疑ってしまう。苦労しなかった子どもなんてあるのかしらと。悩みのないこどもなんているのかしらと。小さくて力がない子どもはいつもなんらかの保護を必要としている。しかし、いつも大人の暖かい保護の中にいられるとは限らない、むき出しの弱さのまま、ひりひりするような怒りや不安や屈辱の中に投げ込まれる。自分の命ひとつだって、いつ死に見舞われるかもしれないという恐怖にさらされるし、親の死に至っては、眠れなくなるほどに不安にさいなまされることだろう。しかし、その不安や恐れも、こども特有な無邪気さや、その時時の楽しい事柄の中ですぐに消えていったのだろうし、また記憶の中からさえ無くなっていったのかもしれない。それとも、わたしのように不安や恐怖を抱きながら育った子どもというのはそもそも稀なのだろうか。
言葉にはできない、生きることに伴う漠然とした不安や、意地悪な上級生の女の子たちが集まっては私の方を見ながら、ひそひそとなにやら嫌な感じで話し手いる場面に遭遇する時の恐怖。どうにも行き場がなく、その場にくず折れてしまいたくなるような気持ちの中に、イエスのその声が響くようになった。 「タリタ、クミ」 たったそれだけの言葉に不思議なように力をもらった。誰もわたしのことを分らなくても、イエスだけは私を知っているという確信のようなものを小さかったわたしは持っていて、座り込んでも、そこから立ち上がることができた。
明日、教会学校でこのテキストで話をするのだが、いったいどんなふうに話せばいいのだろう。あの時、小さかったわたしが直接イエスと対面したように、子どもたちがイエスと向かい会うことはできるのだろうか。それは、わたしにはあずかり知らないこと。きっと自分を空っぽの器にする時、神様は必要なものをそこに満たして下さるのだろう。必要な言葉を用意してくださるのだろう。
「タリタ、クミ」
わたしはもう少女ではないが、今も同じようにイエスの声を聞き、その眼差しに出会っている。
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