たりたの日記
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2002年08月18日(日) |
メメント モリ・あなたの死を覚えよ |
メメント モリ、あなたの死を覚えよ。 フランスのどこかの修道院で挨拶の言葉のように修道女、あるいは修道士が言い交わしていた言葉だと聞く。生きることの喜び、命への深い感謝にひっそりと寄り添っている死。死が在る故に命あることへの喜びが、命あるものへの愛おしさが掻き立てられる。死を身近に引き寄せている時ほど生き生きと生きているという実感がある。死は虚無であるが、また死は虚無の対極に在るものという気がしてならない。 人はひとりで生まれ、またひとりで死んでゆく。
たとえ、何かのアクシデントで人と同時に死んだとしても、あるいは死後、人と同じ墓に葬られたとしても他者と死を分かち合うことはできない。けれど、人間はそうと知りつつも死を共にしたいという願望を捨てきれないのかもしれない。人と深く出会おうとするほど、間柄が近くなるほど、恐れや淋しさを伴った死のイメージがそこに入り込む。それは、やがては朽ち果てるそれぞれの身体を、またその存在を愛しむからなのだろうが・・・。
メメント モリ、しかしこの言葉には、死を他者と共有したいといったセンチメンタリズムも、あるいは人と死別することへの不安も見出せない。そこに浮かびあがってくるのは 厳粛な独りの死。しかし死んでゆく先が開かれた場所であることを知っているような、透き通った明るさがその言葉にはある。そして死はここでは命と同じくらい豊かさに満ち満ちている。
いつだったか、何の本の中からだったかは覚えていないが「強靭な孤独」という言葉を見つけた。そしていつの間にかこの言葉は私の心に他の言葉では置き換えることのできないひとつの場所を作ったのだが、「メメント モリ」と朝に夕に言い交わす人たちを思い浮かべる時、その人たちの豊かで強靭な孤独もまた見えてくるような気がする。その豊かさを自分の内に培っていきたいと願う。
「メメント モリ」という言葉について、人と話したことはなかったが、ある時、教会の日曜礼拝の説教の中で語られたことがあった。すでに牧師を引退されて自宅でドイツ語の神学書の翻訳をなさっている方による説教だった。ご高齢で身体も弱くなっていらっしゃるその方が、日々ご自分の死を意識し、その準備としての暮らしをされていることを厳粛な思いで聞いた。
礼拝の後、説教の感想とこの言葉が好きだということをお伝えしたのだが、それからしばらくたったある日、礼拝の帰り際に挨拶をしようとすると、その方は小さな声でそして静かな笑みをたたえて「メメント モリ」とひとこと言われた。一瞬はっとして私も「メメント モリ」とお返した。それだけを言い交わし、その後に言葉を続けることはなかったが、深いところで触れ合ったような充実した想いが後に残った。
生きるということはそのまま 死へ向かって歩いているということ。良く生きるということはまた良く死んでいくということ。若い者も年老いた者もそのことには変わりがない。そして向かっていくところは暗闇ではなく光のあるところ。終わりではなく新しい始まり。豊かな場所へ、なつかしい場所への帰還。そんな思いを込めて、 「メメント モリ」あなたへ。
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