たりたの日記
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今日の教会学校の担当は長男のHの番だったが、学年度末の試験でお尻に付いた火も半端じゃない状況なので変わってやることにした。今日の聖書日課はコリントの信徒への手紙1の1章10〜17「一致の勧め」というタイトルが付いている。
初代教会でさえ、様々な問題を抱えていたことが分る。コリントの教会で内部分裂が起こっていたようだ。それに対してパウロは「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と問いかける。2000年前も今も分裂や仲たがいが容易に起こることは変わらない。「心を一つにし、思いを一つにし、固く結び合いなさい」というパウロの言葉は身に染みるが、それを実現することの何と難しいことだろう。
子どもたちへの話はこどもさんびかの137番の「きょうだいげんかを」という賛美歌を題材にした。阪田寛夫作詞、大中恩作曲の歌で1981年に作られた歌だ。20年前、教会学校で教えていた頃、新しいこどもさんびか集に入っていて子どもたちに教えた覚えがある。もう一度開いてみた。
1、きょうだいげんかを しない日はとおかにいちどか つきにかい なかよくするのは むずかしい かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。
2、しらないどうしで けんかする したしくなっても またけんか なぜだかさっぱり わからない かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。
3、こころがよわると うらみあい はりきりすぎると いがみあう なんだかかなしく なってきた かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。
4、そのくせあるとき わけもなく みんなにやさしく したくなる だれかにおわびを したくなる かみさま かみさま かみさま そのわけおしえてください。
おしえてください かみさま
この歌の3番の歌詞について考えてみた。ここにどうしてけんかをしてしまうかそのわけのヒントが隠れている。けんかも仲たがいも相手があってのことだが、相手の非を指摘することから始まるが、その原因は案外相手の中にはなく、自分の内にあるのではないか。自分自身への不信感や迷い、劣等感などが自分に向かわずに他人へと向かうという習性を私たちは持っているのだ。だとすれば、いったいどこに解決があるのだろう。 私は子どもたちにこう語った。 「誰でも不安になったり、自分がいやになったりするんだけれど、それをそのままにしていたら、自分の心が病気になるか、そうでなければ、それを人にぶつけて、けんかになってしまう。心も病気にせずに友達とけんかにもならずに元気になる方法があるでしょうか。私は今度心が弱くなったらまず神様にお祈りしようと思います。自分の不安を誰に話しても相談してもますます淋しくなるばかりです。大好きなお母さんだってみなさんの苦しい気持ちを変わってあげられないんです。そんな時は淋しい気持ち苦しい気持ちをかみさまのところに持っていくのです。人にはできなくても神様は不安をとりのぞくことができます。その淋しさを強さに変えてくれるのです。」
******************** 1コリント1章10〜17 ◆一致の勧め 1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
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