たりたの日記
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高橋たか子のエッセイ集、「驚いた花」を読み終えた。 いつもそうなのであるが、彼女の書いたものを読む時、なんとも形容しがたい 満足感に充たされる。
彼女は私の母の世代である。しかし、彼女に母親に対するような感情を抱いているのではない。そもそも彼女の中に母なるものは見出せない。女性にしかない独特の感性を持ちながらある面で非常に男性的である彼女はいっしょにお茶を飲みながらおしゃべりしたい相手というわけでもない。教師に持ちたいパーソナリティーでもなければ、信仰者として、相談したり話しを聞いてもらいたい相手でもない。そもそも会いたいとは思わないのである。それなのに、私は常に彼女の書いたものを読んでいたいと思っている。これから先、それを読むという愉しみを失いたくないと願っているのである。 この満足感はいったい何なのだろうと思いつつ読んでいる時、エッセイの中にそれを示唆するような文があった。 一部引用すると 「人間は一人一人が井戸であり、地下水を汲み上げながら生きている。そして、井戸の底のほうで地下水があらゆる人に共通しているのである。大庭さん(作家の大庭みな子氏のこと)と私とはそれぞれ、地下水のところまで潜る能力があり、潜りながら喋っているから、どんなに違うことを言いあっていてもたがいにツーカーと理解しあうのだ、、、、、。」
私は高橋たか子と大庭みな子との対話に入っていけるなど大それたことを思っている訳ではないが、彼女がいうところの、この地下水の概念が、私の満足感の所以だと納得した。彼女の言葉が触れてくる場所というのが私の底に流れている地下水の汲める井戸で、いっさいのものが剥がされた裸の私がひとりいる場所なのだ。しかも彼女の存在はわたしを脅かすことはない。ひとりの彼女とひとりの私は交流しあうというのでもない。ただ彼女の言葉で私は私の行きたい場所へと、降りていくことができるのである。彼女の言葉がそこへと誘いだしてくれるのである。満足感とは私が地下水の中に潜ることができることへの満足感に他ならない。 彼女はこの「場所」について別のところでこのようにも語っている。
「他人が慰めることもできない、ひとりっきりの底の底の場所にこそ、祈りが成立する。何を祈るかなどという具体的な段階のことではない。その場所は祈り以外に何もすることがないほど、具体的に祈ることなど何もないほど、裸なのである。そこにそうして存在していること事体がいわば祈りの行為なのだと言ってもいい。」
さてこの文を綴っている私のすぐ側で息子達はTV ゲームに打ち興じている。実にうるさい。この喧噪の中でさえも、彼女の言葉は私を全くの静寂へと誘うことができる。大した力であると思う。
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