たりたの日記
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2001年08月19日(日) |
地上に火を投ずるために |
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ 分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 父は子と、子は父と、 母は娘と、娘は母と、 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる。」
ルカによる福音書12章49~53
今日の聖書日課の箇所だ。 イエスが群集に語りかけている一連のメッセージが続けて書かれている中で、この語りかけはなんとも過激だ。しかし、その過激さの故に、私は若いころからこの箇所が好きだった。 イエスは地上に火を投ずるために来たのだと、平和よりも、むしろ分裂をもたらすために来たのだと言い放つ。 しかし別のところでイエスは、右の頬を打つものには左のほほも向けてやれと言い、上着を奪おうとするものには下着をも与えろと教えるのである。 だから、ここでいう分裂は単に仲たがいや喧嘩を良しとするのではなく、人と人との関係の深い部分に切り込んでくる言葉のように思える。 私たちは人とまた社会とうまくやっていこうと無意識にバランスを取っている。社会は「秩序」をまず、求める。上に立つものが下にあるものをコントロールできるようにルールや慣習が人間を支配する。そうして極力波風が立たないように穏便に事を運ぶことが良しとされる。これは今の日本の社会のことのようだが、2000年前のイエス時代でもそうだったのだ。 そこへイエスは分け入って波風を立てるのである。秩序よりもっと大切なものがあるのだと、それに気づかせるためには火も投ずると。
イエスが火を投じるまでして人々に知らしめたかったことはいったい何なのだろう。私はこう考える。秩序や規範に従っていればよいとする生き方ではなく、ひとりひとりが自分自身に目覚め、神と直接に向かい合うという生き方を提示しているのだと。人が自分の魂に忠実に生きようとするとき、自分を支配しようとするものと闘わなければならない場面が生ずる。それは時として、反抗の形をとったり、分裂をもたらしたりするかもしれない。けれど本当の関係を建て直すためにそれは避けられないことだと思うのである。それは憎しみや妬みから生じるものではなく、おのおのが自分自身に立ち返るときに生じる分裂だと、産みの苦しみだと思うのである。眠っている魂よ目覚めよとイエスは火を投じるのだ。
私は性分として、回りとのバランスを取ろうとする傾向がある。誰も嫌な思いをしないように、事をまるく治めようとしてしまう。そして無意識のうちに秩序やルールに縛られ、人にもそれを要求してしまう。しかし、それこそが私の弱さであることを、イエスから遠いということを自覚している。いつもそのジレンマに立たされる私は、きっぱりと言ってのけるこのイエスの過激さに惹かれまた信頼する。
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