たりたの日記
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2001年05月31日(木) |
ゆえに水は1と数えよ |
今日は雨だ。 このところ3週続けて、木曜日に雨が降る。 傘をさして、少しぬれながら、ヨガがある県民活動センターまで歩くのも、悪くはない。緑は美しいしはずだし、言葉もいっぱい浮んでくるにちがいない。今日も行くつもりで、バッグにバスタオルなんかも詰めたのに、ソファーにどっかり座りこんでこうして書いている私は、どうやらサボる気配である。
時間までちょっとのつもりで、本棚の奥で眠っていた谷川俊太郎の詩集「コカコーラ・レッスン」を取り出したのがいけなかった。 久しく会っていなかった友人とばったり会って、今つかまえて話さなければ、 またいつ会えるかわからないという気持ちになってしまった。
赤くて薄い、長四角の本は美しかった。 こんなにきれいな本だったかしら、もうすっかり忘れていた。 表紙を開くとAのサインがあって 「雨泉露池」の詩の冒頭の部分が記されている。
”あらゆるところで水はつながる ゆえに水は1と数えよ”
育児は混乱を極めていた。Aがクリスマスの贈り物にくれたこの詩集から立ち上ってくる匂いは私の現実から遥かに遠く、切ないほどになつかしかった。そして池袋かどこかの本屋の詩のコーナーで、この詩集を見つけることができる父親の立場がねたましくもあった。そうはいうものの、赤ん坊の泣き渡る団地の2Dk にその匂いを持ち込んでくれた夫をありがたいと思ったことは覚えている。 多く詩は子育ての日常に役立ちそうではなく、わたしは素通りしてしまっていたが、この「ゆえに水は1と数えよ」の詩は心にくい込み、その時の私の枯渇してしまいそうな泉にどっと水を流し込んでくれた。 わたしはおしめを替えたり、おぶいひもを肩にくいこませたりしながら、しばらくこのフレーズにしがみついていたような気がする。その詩からやってくるものは、その時のおしめやおぶいひもの日常をすっかり包んで成り立っている世界だと思った。生きていること、命ということ、その源へと辿ってゆけた。命を抱えて原始的に生きている母親たちを支えるような力強さも含んでいた。
今わたしの身辺はすっかり平和になって、忙しく仕事に追われる夫をしり目に池袋の本屋でもどこでも出かけられる身分である。こんな身分で読む詩はどういうものなのだろう。あの時素通りしてしまった言葉と今なら出会うことができるだろうか、読んでみよう。 雨はやんだが、やっぱりヨガへは行かないらしい。
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