たりたの日記
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今日は珍しく家族が4人揃って夕餉を囲んだ。 豚の薄切り肉とほうれん草と豆腐がある。とくれば豚ちりでしょう。しょうがをおろしてぽんずで。そうと朝から決めていた。7時すぎ仕事から帰ってきて鍋に水を張ったところで、卓上こんろのカートリッジを切らしていることに気がつく。どうしよう!
そこで鍋で豚肉をさっと茹で、肉を取り出した後、しめじ、ほうれん草、うどん玉を順番に入れ、茹で上がったものをざるにあけ、水で冷やし、冷たい豆腐といっしょに大皿に盛った。 ごまドレッシング、またはポン酢におろししょうがときざみねぎと七味で食べることにした。つまり、鍋の中味をすっかり取り出し皿に盛ったというだけなのである。
「これ何ていう料理なの、豪快だねえ」と何もしらない家族は珍しがり、大皿いっぱいの「鍋の中味だけ冷しゃぶ風」は最後のうどんひとすじまで、箸がかちあい、それぞれの胃袋に無事おさまった。瞬く間だった。
食べるときはしんみり話すゆとりなどないから、ひととおり満腹になってから話しらしくなる。話題は「夕暮れ時」。夫がわたしが昨日書いた、日記の子どもの時の心情がさっぱり分からないと言う。次男は、「ぼく、よく夕方、理由もなく淋しくなったことあった。みんな家にいるのに。」と告白する。「そんな時どうした?」「泣いた。」「お母さんは坂を駆け上がって夕日を見たらしいよ。」「ところでHは?」「それって、ぼく一回も経験ない。そういうのがあるらしいことは聞いたけど」と、自信満々である。どうやらこのことに関しては、私の遺伝子は次男に、夫の遺伝子が長男にいったようである。
夕暮れ時のいたたまれなさは過ぎてみれば何ともないことだが、小さい時には けっこうこたえるものである。ある時、わたしは家族団らんの夕餉の最中、大好物のチキンライスを口に運んだその瞬間にあの気分に襲われた。スプーンですくった赤い色の御飯をどうしても口に入れられなくて、「お腹減らすために走ってくる」と言って、食事をそのままにして外に飛び出した。子ども心にも、何とか払拭しなくてはとあせった。あの時いつもうるさかった父親がその行儀の悪さを見逃してくれたのは父にも覚えがあったからだろうか。そして母親が少しも心配そうでなかったのは、母がその気分とさっぱり縁がなかったからであろうか。
次男が夕暮れの窓辺で淋しいと言いながら泣いた時、私はなんとも不思議な気持ちに打たれた。かわいそうに思ったが、何かうれしくもあった。 「分かる、分かる、みんなそういう気分になるものなんだよ。」と言ったような気がする。
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