『資本論』を読む会の報告
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2003年03月02日(日) 第2回

■第2回『資本論』を読む会は、1月21日(火)に行われました。
出された疑問点や議論になった事項は以下のようです。

●価値実体とは何か。 さしあたり「労働」と理解しておこう。

●第1版で価値形態論の「二重の記述」とは。
第1版の一部は国民文庫『資本論第1巻 初版 第1章および付録「価値形態」』として出版されている。
その目次は -
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第1章 商品と貨幣 
(1)商品 
(2)諸商品の交換過程 
(3)貨幣または商品流通  
A諸価値の尺度  
B流通手段 
C貨幣

第1章(1)への付録 価値形態
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となっていて、価値形態論は、本文と付録で展開されており「二重の記述」となっている。
 
●クーゲルマンとはどんな人。
 クーゲルマン・ルートリッヒ(1830-1902) ドイツのハノーヴァーの医師。1848−1849年革命の参加者。第1インターナショナルの活動家。マルクスとエンゲルスの友人。

●大陸における1848年の革命とは。
フランスの二月革命
 19世紀の半ばのヨーロッパでは、1846年以来の凶作と、翌年イギリスに始まった恐慌とによって同様が広がり、オーストリアなどの保護下におかれていたクラクフではポーランド人の反乱さえ起こっていた。(1846年)
 フランスの七月王政は、地主と大資本家を中心とする政権であったから、産業革命が進行するにつれて七月王政に対する不満が強まり、選挙権を持たない中小の資本家や知識人などを中心とする共和派のほか、労働者の支持を受けていた社会主義派の勢力が成長するようになった。このような情勢の中で政府は、外交上の失敗をかさねたほか、凶作や恐慌に対して適切な対策をとることができなかったので、人気を失い、共和派・社会主義派は一致して選挙法改正の運動を起こした。
 1848年2月、政府がこの運動を弾圧しようとしたことからパリで革命が起こった。反政府派は激しい市街戦に勝利を収めた。国王ルイ=フィリップはイギリスにのが共和派のラマルティーヌを中心に臨時政府を組織し、共和制を宣言した(第二共和政)。これが二月革命である。この革命で大きな役割を果たしたのは労働者であったから、共和派も初めはかれらと妥協し、臨時政府に社会主義者のルイ=ブランを加え、ひの主張に基づいてパリに国立作業所を設置した。しかし、革命が一応おさまると、情勢はしだいに社会主義派に不利となった。資本家はもとより、フランス革命以来小土地所有者となっていた多くの農民は社会主義派の進出をきらい、また労働者でさえ国立作業所の運営を不満としていた。その結果、社会主義派は、男子普通選挙によって行われた4月の選挙に惨敗し、まもなく国立作業所も閉鎖された。これに対して労働者は、6月、パリで大規模な行動を起こしたが、失敗した(6月蜂起)。その後、憲法が制定され、12月に大統領選挙が行われるとナポレオン1世の甥で巧みな弁舌をふるって注目されたルイ=ナポレオンが大勝し、大統領に就任した。
ドイツの三月革命
二月革命の影響を受けてドイツでも三月革命がおこつた。ドイツでは1834年にドイツ関税同盟が発足し、ライン地方を中心に産業革命が始まると、自由主義的改革を求める動きや労働運動がさかんになった。一方、オーストリアでも支配下にあった異民族の動きがしだいに激しくなっていた。
 このような情勢の中で二月革命の報道が伝わると、1848年3月、オーストリアの首都ウィーンで革命が起こり、メッテルニヒはイギリスに亡命しなければならなくなった。これと前後してオーストリアの支配下にあったマジャール人(ハンガリー人)、ベーメン(ボヘミア)のチェック人などが、民主主義的な要求を掲げて民族運動をおこし、またプラハではパン−スラブ会議が開かれ、スラブ人の平等が主張された。一方、プロイセンでも3月、首都ベルリンで激しい市街戦がおこった。驚いたプロイセン王は、ドイツの統一と憲法の制定を約束し、自由主義者に政府を組織させたが、同じような動きは他のドイツ諸邦でも起こった。その結果、同年5月、全ドイツの代表が集まってフランクフルト国民会議(1848-49)が開かれ、ドイツの統一と憲法制定が討議された。しかし、このころになると自由主義者が労働者の進出をおそれて改革をためらうようになったので、反革命派はこれを利用して勢力をもりかえし、フランスの六月蜂起の失敗に力をえて革命派の弾圧を行った。一方、国民会議は翌年、ようやくプロイセン中心の統一策を定めたが、時すでにおそく、反動化したプロイセン王は議会の要望を拒否し、その後、国民会議も解散させられたので、ドイツの自由主義的統一は失敗に終わった。
諸国の情勢
革命の波は、イタリアにも及んだ。自由主義的な憲法を制定していたサルデーニャ王は、革命派に支持されて統一運動をおこし、オーストリアと戦ったが敗れた。その後マッツィーニの率いる青年イタリアがローマ共和国を建てたが(1849年)、教皇と結んだルイ=ナポレオンの出兵によって倒され、また各地の革命派もオーストリア軍に鎮圧された。一方、フランスでは、ルイ=ナポレオンがローマ出兵に反対する共和派を抑圧し(1849年)、巧みな政略によって着々と皇帝への座を固めていった。また、イギリスでは、チャーチストが大規模な運動をおこそうとしたが失敗し、以後、運動は沈滞するようになった。
 この間、オーストリアにかわって反動勢力の中心になったのはロシアであった。ロシアは、最後までーストリアに抵抗していたハンガリーの鎮圧に協力し、「ヨーロッパの憲兵」としての役割をはたすとともに、バルカン半島のスラブ民族の素朴な民族主意識を利用し、のちパン−スラブ主義運動を指導するようになった。 このような1848年の諸革命は、ウィーン体制を崩壊させたものの、おおむね敗北をもって終わった。しかし、各地の革命運動で提起された民主主義民族問題は、まもなく具体的な形で表面化し、19世紀後半の諸国に重要な課題を投げかけることになったのである。
     (三省堂『世界史B』)

●カウフマンはどんな人。
 1848-1916 ロシアの経済学者。サンクト−ぺテルブルグ大学教授。貨幣流通と信用に関する書物の筆者。

●経済学と自然科学との共通性と差異。

●ヘーゲル哲学の内容、ヘーゲルとマルクス。


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