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2012年09月11日(火) 質的研究法の教育をどうするか?

専修大学でおこなわれた日本心理学会第76回大会にて1日目に「質的研究法を心理学でおしえる意味と方法」という自主シンポで話題提供してきました。立命館大学で研究員をされている安田さん、山梨大学の谷口さんと僕が話題提供し、明治学院の野村さん、関西大学の北村先生が指定討論という構成です。

1日目の朝1の企画。朝、予定よりもすごく早くついてしまって会場には私1人。打ち合わせが終わっても人影がまばらで、ふと心配になりましたが、結果的には40名ほどの人が聞きにきてくれていたように思います。みなさん、どんな動機でこられていたのかは知らないのですが、質的研究の教育という、けっこうマニアックなネタであるにも関わらず、それなりのニーズが出て来たと解釈すべきなのでしょうか。なかには、自分自身はあまり質的研究はやったことがないけれど、学生のニーズにあわせて教えなければならないという人もいるようです。時代は変わったものです、良いか悪いかは別にして。

さて、当日の話題提供では、私は卒業論文での質的研究指導という文脈でお話させていただきました。質的研究の教育というテーマで何を話せばいいかというのは、実はけっこう難しいと思います。質的研究で教えるべきテクニックや認識論などの話になれば、それすなわち方法論自体の話になりますし、どういう研究がよい研究かとなれば評価の話になります。教育というテーマに即せば、コンテンツ自体の話でもなく、どのような研究がよい研究かという評価軸自体の話とも少しはずれた、教育という文脈での議論がおこるべきなんでしょう。心理学の専門家になるわけでもない学生たちに対して、大学4年間の集大成として取り組んでもらう卒論で、心理学としては何が提供できるのか、というようなことをもっと考えなければならないとシンポをしてみて思いました。


当日は私たちみんな時間オーバーで、かなり時間がおしてしまいました。司会だった荒川さんは「自分の時間管理が」とおっしゃってましたが、とりわけ私に関しては、ちょっと詰め込み過ぎでした、ご迷惑をおかけしました。というわけで以下では、時間がおしてしまって十分にお答えできなかった指定討論+フロアの質問にこたえてみました。

(1)教えるべきなのはテクニックか認識論か。例えば、認識論についていえば、例えば質的研究に「正解はない」といったことは学生に理解されるのだろうか。

 質的研究でみちびかれる見解に「正解はない」という言い方がしばしばなされます。このことについて考えているのですが、多元的な現実が構成されていくという見方をとれば、唯一の真実などないという見解に間違いない。けれど、それは事後的に知られるのではないか。個々の生活世界に生きている人々(研究者もその一人)にとって、自らの生きている世界が、他でもありえるなどということは見えていないことが多いのではないか。もし、正解がないということを堂々といえるのだとしたら、それは「正解がない」ということが「正解」になってしまっているということなのでしょう。他でもありえた可能性は、研究実践をかさねるなかで、自らの閉じた世界観から一歩踏みでる体験をしてみてはじめてわかるようなものではないだろうか、と思っています。だから、初学者にとっては、テクニックとまでいかなくても、ある程度、目的のはっきりしたことをやり、そのなかに質的研究の学びへの機会をうめこんでいくというのがよいのではないでしょうか。

(2)量的研究のトレーニングとの兼ね合いは、あるいは質的研究をやらない人にとってのトレーニングの価値は?

 わが大学では2年のときに質問紙と、実験法のトレーニングをする。苦労して3年になった途端、うちのゼミに配属されると、その実習の体験が参照されて、「質的研究とはそれではない」と打ち消されるという体験をうちのゼミ生はうけています。いわば、いままで受けてきた教育をなかば否定されるところから話がはじまるわけです。これは、私が質的研究に取り組んできた時代性が影響しているのかもしれません。量的研究を批判することから、質的研究の意義を語りだすという語り口を、みんなとってきたからです。
 こういう展開がいいのかどうか、これまでは自明にやってきましたが、少し考え直してみなければならないと思っています。というのも、これだけ質的研究法がとりあげられるようになり、大学時代からトレーニングが受けられるという時代になった際、このままの語り口でよいのかという思いがあります。もはや学生は、批判するほど量的研究になれているともいえないし、実際、卒論でも量的研究や、こまかい統計の理解をパスできる状況(自分だって卒論で実験をしなければ、統計やら計画やらにそこまで習熟しなかったろうと思えますし)もあります。いまの時代の院生に「質的研究は科学じゃない」とかいう台詞をきかせても、どれだけ共感をえられるのか、という気もします。そもそも、そのような体験をしていないんだから。だから、これからは少し違う導入の仕方を考えていくべきなのかもしれません。それは今後の課題です。

 次に、兼ね合いとか、量的研究者にとってのメリットについて。
 本来、質的研究を教える、量的研究を教えるといった言い方自体、便宜的にはアリですがちょっと違和感があります。質的にしたって、量的にしたって研究法というのはツールであり、そこで何をするかが大事だろうと思うからです。私たち質的研究を主たる方法論としている者からみると、量的研究というのも、ある種の言語です。この言語は、日常語のように多義的でいろんな解釈を許すというよりも、硬直しており、安易な変奏をゆるさないものがありますが。でも、同じく言葉なのだと思います。だから、量的研究の人にとってみれば、自分たちが使う言葉の使い方をこえた、言葉をつかう人たちの話を知ることで、かえって自分たちがやっていることの意味が明確になるということはありえるだろうと思います。だから、数量的な研究をしていく人にとっても質的研究は有用であると思っています。

 質的研究、量的研究を包含して、そこでなにをしたら研究たりうるのかという条件となると、難しいですが、個人的には論理的に考えるということだと思っています。僕は、自分自身の体験上も、量的研究のトレーニングというか、実験計画をたてるトレーニングとか、そういうものをやっていると、自然とみにつく論理的な発想というのがあるように思えます。うちの大学でほとんど採用するものがいなくても、質問紙と、実験法を実習させているのはそういう思いがあるからです。そういう意味で、質的研究だけが一人歩きしてしまうような状況は、また、問題だろうと思います。


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