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2006年02月02日(木) 社会的望ましさのバイアス

昔、非行少年に興味をもって研究しはじめた頃、「社会的望ましさのバイアス」という言葉にはとても違和感があった。その言葉が言うことの本態は何かといえば、要するに、鑑別所や少年院では少年は審判や処遇を意識して、「僕は反省しています」「本当に悪いことをしました」という言葉を発するということを指している。本当に反省している人もいるのだろうが、これらの言葉はある程度割り引いて考える必要があるということである。

これは果たしてバイアスというのだろうか?。バイアスというのは正しい反応があって、そこからのズレとして反応に影響を与えるものだ。では、非行少年の語りにとって正しい反応とは何か?となるとわからなくなる。そもそも、非行少年の語りは、大人が期待しているなにものかを表象する言葉ではなく、それ自体が大人に対しての語りかけになっていると考えた方がいいのではないか、と思ったのだ。

そう思ってここまでやってきたことは、基本的には間違っていないと思うが、法務省の方々と先日お話して、これはなかなかにハードな問題であることがいまさらながらに了解されてきた。
矯正が失敗することは許されないのだが、やっぱり最後の最後まで、表面上は非常に反省してみせる人がいる。これをなんとかしたい。将来にわたってこいつは再犯しないというエビデンスを、出所する際のアセスメント(それもできるだけ簡便なもの)によって知りたいということなのだ。これは現場にとってみればかなり切実な問題だ。

これは矯正だけに限った話ではなく、およそ学校といわれるところに共通する問題ではないだろうか。つまり、卒業するまでになんらかの知識をつめこみ、技能を獲得させて、次の行程で困らない人材へと仕立てていくわけだ。このような考え方は、あまり現実的ではないかもしれない。学習論で「転移」概念が批判され、個人能力を前提としてしまうとやっかいなことがたくさん出てくる。「境界横断」としてとらえるべきだという話になる。

ただし、境界横断としてとらえようとすると、矯正の場合、かなり制度をいじらなくてはならない。犯罪者の人権を守るための法律に抵触することもあるかも知れない。「制度はなかな変わらないけど、そのなかでやれることを探す」という意味では、バイアス研究のほうが良いのかも知れない。


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