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2005年12月19日(月) 「偽の自己」って有効な概念だろうか?

非行少年のなかでも処遇が難しいとされるのは、一見すると反省しているようで、優等生のように見えながら、実はそうではない(大人の目の届かないところでは逸脱を繰り返している)人だといわれている。私も、そういう場面に何度かたちあった。

こういう少年に出会うと、私たちは当惑する。というのも、私たちはたいてい優等生的にふるまっている場面を「偽物」で、逸脱を繰り返す場面を「本物」であるとみなす。で、とんでもない奴だ、油断のならないやつだ、ということになる。

臨床心理学の理論には、都合のよいことに「真の自己」と「偽の自己」なる概念がある。つまり、本音の部分は隠して、表面的に適応する「偽の自己」を発達させざるをえない生い立ちがあったんだというような説明になる。これは、なるほど説得力がある。

でも、それは本当だろうか?、と、あえて私は言いたい。こんなふうに考える私たちが前提にしているのは、おそらく施設での訓練が「練習」であり、それ以外の場面が「本番」だという認識だろう。つまり、彼らは「練習のための練習をしている」ということになる。

でも、もしかして彼らに「練習」などないとしたら?。もしかしたら彼らはどんな場面でも「本番」のように、目の前にいる人(それが大人であれ、少年であれ)にあわせて、その場で適応的にふるまうということだけを志向しているのかもしれない。

そういう前提をもってみたら彼らへの見方も変わるのではないだろうか。大事なことは、「偽の自己」などという言葉で、彼らを「手に負えない人」とか「病理水準が悪い人」にして思考停止してしまわないことだ。個体能力主義的に考えるのではなく、あるコンテクストのなかで、メンバーによって何が本当で、何が偽りと判断され、それが各成員のどのような対処を導いているのかということを反省的にみていくことが大事なのではないか。

例えば、「反省の言葉」「未来への意気込みの言葉」を聞くことに焦点をあてるのではなく、むしろ少年が着実に更生へとふみだせるような具体的な行動指針を探すことを志向すること、私たちがやってほしい事ではなくて、彼らが切実に困っていることをみる努力をせねばならないということになるんじゃないだろうか。実際、そのようにやっている方はたくさんいらっしゃるしうまくいっていると思う。

「偽の自己」というのは、そのような実践を導くのには使えない概念ではないだろうかと思えてしょうがない。


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